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ちょうどいい距離

 午後7時過ぎ。それは、ユキがこの部屋に来る時間帯だ。
 それまでにわたしは、ユキのために、サバのトマト煮や厚揚げの照り焼きをつくったりなど、ふたりぶんの夕飯の準備をする。ユキがここに来るようになってから、料理をするのも好きになった。この部屋に入居した当初は、ほとんどインスタントでごまかしていたけど、ユキに「それじゃあ、健康に良くないよ」と注意された。でもそういうユキだって、自宅で自炊などほとんどしない。甘い物が好きで、朝食をメロンパンで済ますときも多い。
「だったら、ミカがつくってよ」
 などといわれても、ユキならなぜだか腹が立たない。むしろ、ユキの分までつくってしまっている。今みたいに。

 厚揚げの照り焼きのソースを味見し、(もう少し甘いほうがいいかな……)とユキのために、砂糖を振りかける。フライパンでソースをじっくり熱し、とろりとなるまで待つ。
 もう少しでいい感じにとろみがつく、となる直前で、ユキの足音が玄関の外で聞こえ、わたしはいったん火を消す。チャイムが鳴り、わたしはいつも通り顔に笑みを浮かべてしまう。そのままの表情で玄関を開ける。そこには、窮屈なスーツを着ているユキの姿がある。
「ただいま、ミカ」
「お疲れさま、ユキ」
 ユキはふっと弱く笑い、狭い玄関に入る。ユキはスーツのときでもスニーカーを履いている。革靴だと靴ずれするからさ、とユキはいう。
「ん、いい匂い。今日はトマトスープ?」
「ちょっと外れ。サバのトマト煮だよ。あと厚揚げの照り焼き」
 へぇ、とユキはちょっとうれしそうな顔をする。口にあてているマスクを下げ、部屋に漂う夕飯の匂いをかぎながら、キッチンで入念に手を洗う。ユキのしろく薄い手は、まるで女のひとのようだ、といつも思う。
 実際、ユキは自分が男であることに、違和感を持っている。
 かといって、女であるかというと、そうではない。男でも、女でもない、性別があるんならそれだよね、とユキはいう。でも、職場や家族や薄い関係の友人の前では男でいられる。まあ、俺の場合、軽症なのかもね。女装とかも興味ないし。ただ、女の子とつきあうときに、男を求められると困る。俺、そういう性的な目で見られるの、ほんとムリなんだわ。
 などといっている。

 そんなわたしはユキのことが好き。ときどき「性的な目」で見るときもあるけれど、ユキに直接それを求めることはしない。求めて関係が終わることを怖れているというよりかは、わたし自身、初めてつきあった男の子との間で、嫌な思いをして以来、そういうのを男のひとに直接求めることはしなくなった。ユキとキスをしたり、ハグをしたり、とかは想像する。でも、想像するだけだ。
 俺ら利害が一致しているね、とユキはいう。

「ミカ、料理うまくなったね」
 厚揚げを食べながら、とくにソースがうまいよ、とユキはいう。ほんと? わたしはうれしくなる。飛び上がりそうなくらい。
「うん、これならお嫁にいっても大丈夫だよ」
「ありがとう。お嫁には……いけないけど」
 わたしの自虐ネタにユキは笑いもせず、モリモリと食べている。その姿にわたしは満足する。
 泊まっていきなよ。
 と、今までなんどか口にしかけたけど、ユキにはいえなかった。
 泊まっていきなよ。といって、ユキが青ざめるのが嫌だ。
 いつだったか、部屋の蛍光管をユキにつけてもらったときがあって、誤って脚立から落ちてしまったユキに、ラブコメのように押し倒されたことがあった。
 そのときのユキの顔が忘れられない。
 無表情のまま、血の気が引いていっているのがわかった。色白のユキの顔が、みるみるうちに青くなった。そのとき、わたしは押し倒されながらも(ユキはほんとうに、そういうの嫌悪しているんだ……)と確信を得た。
 確信を得て、ユキとはこれ以上の関係は進めないんだと思った。

「あぁ、うまかった。食費いくら?」
「今日は282円だよ。いつもよりサバ缶が安かったの」
 だから、ご飯代もきっちり折半する。お米はいつもユキが実家から送られてきたやつを、わたしにくれるからお米代は入っていない。買い出ししたり料理したりするのはわたしだから、お米代はわたしも払わなくていいというふうになっている。
 フェアな関係にしよう、とはふたりとも口にはしなかったけれど、ユキと友人としてつきあっているうちに、暗黙の決まりごとが多くなった。
 ユキはご飯を食べた後は、しばらくテレビを見てくつろいでいる。これもいつもの決まりごと。ユキの好きなクイズ番組を見ながら退屈しているわたしの傍で、ユキは次々と問題を正答していく。かつてユキは、そこそこ立派な大学の理系学生だった。 
 いつまで親の期待に応えられるのかな。
 ユキは、ときどき悲嘆とかではなく、純粋な疑問として口にする。世間体の良い企業に入社し、かれこれ5年は続いている。昇進はまだしていないけれど、ユキの仕事ぶりを評価してくれている上司や同僚がいる。ただ単に、ユキに欲がないだけだ。
 大丈夫だよ。もうじゅうぶん親孝行しているから。
 と、わたしはいったけど、ユキを納得はさせられない。ユキは黙ってクイズ番組の小難しい問題を、たやすく解いていく。

 もし、わたしがユキの彼女になれたのなら。
 でもそれは果たしてユキのためだろうか。わたし自身のエゴじゃないだろうか。
 そんなことを、ぐるぐると考えているだけで、苦しい。
 そして、ほんの少しだけ、甘やかな気持ちにもなってしまう。
 5問正答した後、ユキは振り向き、
「今日さ、泊まっていい?」
 といって、わたしの息が一瞬止まった。
「え……、なんで?」
「今、親と喧嘩していて。ミカが嫌なら帰るけど」
 即座に、いいよ、泊まっていきなよ、というわたし。いいながら、困惑している。心に様々な感情が巡って、平静な表情を保つのに精一杯だった。ユキは、ありがとう、実家からまた米送るから、といってくれる。どうやら宿泊費もお米でまかなうらしいユキ。
「シャワーも使っていい?」
「う、うん。どうぞ……」
 ユキが浴室に入っている間、わたしはどきどきしていた。ときめきとは違う。何か不穏な気持ち。ちょうどいい距離感でいたのに、泊まらないことが暗黙の決まりだと思っていたのにーー。予期せぬことに、ユキの気持ちをいろいろ勘ぐりだす。
(ほんとうはユキ、わたしのことが好きだったらいいな……)
 でも結局は、都合良くしか考えられない。
 ユキにははっきりと自分の気持ちを伝えたことはない。
 伝えても、ユキを困らせるだけだし、それ以上の関係にもなりたいとは(なりたい気持ちもあるけれど)強く思っていない。
 今の、触れられないけれども、ユキの顔がはっきりと見える、それくらいの距離がちょうどいい。
「ミカん家のシャワー、パッキン緩いけど大丈夫?」
 と浴室からでてきて、ユキは柔らかい髪の毛を、タオルでわしわしと水気をとりながらいう。熱いシャワーを浴びたあとだから少し頬が赤くて、なんとなく化粧を施したみたいになっているユキ。わたしが貸した薄手のトレーナーも、小柄なユキの身体にフィットしている感じだった。
「ミカ、聞いてる? あれじゃ、お湯が漏れるよ」
「あ、うん。わたしが使ったときは、気にならなかったんだけどな……」
「ミカの気にならないはあてにならない。気にしなさ過ぎるんだもん。いつもぼんやりしててさ」
 とばっさりいわれても、わたしはいつもとは少し違うユキの姿のほうが気になり、肝心の話が頭の中に入っていかなかった。

 ユキに触れたい。
 やわらかな欲望が、お腹の底を熱くする。触れたい。でもそれ以上は考えられなかった。ユキの火照った頬に触れていたい。それだけで、良かった。
「ほら。いうそばから、またぼうっとしてる……」
 ユキの指がわたしの額を突く。その瞬間、やわらかだった欲望が突沸したように、あふれだす。喉元が苦しくて、気がついたときには涙が目元に滲みでていた。ユキの表情が変わる。困惑させてしまった、と思い「ごめんね」といったけれど、それでは涙の説明にはならない。

「ごめん」

 上から降りてきたその声に、全身が粟立った。
 ごめん、それだけの言葉に込められた意味を思った。
 ユキはタオルをわたしの頬に優しくあて、そっと涙を拭う。
 それから、「今日はやっぱり帰るよ」といった。
 心の中で「ごめん」の意味と「帰るよ」の意味を照らし合わせる。胸の裏側が熱くなって、また涙がこぼれそうになる。でも、ここでまた泣くわけにはいかなくて、我慢したら喉がぎゅっと狭まり、黙るしかなくなる。
 優しく涙を拭ってくれるユキの手が、残酷だと感じた。
「……ユキ、わたしは」
「ごめん。もし期待させてしまったとしたら、謝る」
 何もいっていないのに、ユキにはすでに見えてしまっていた。
 でもわたしは、「……期待なんてしていない」といいはった。
 ユキは眉を下げて、少しだけ笑った。でも、帰るよ。男と女だし、俺ら。とユキはいう。こんなときだけ、男と女を持ち出すのはずるい、と思いながら、でも何もいえない。言葉を吐いたら、涙がこぼれそうになるから。

 粛々と身支度をととのえるユキの背中を眺めながら、身体中に熱が走ってしかたなかった。だから衝動で、ユキの背中を抱いた。胸元に感じる、ユキの背骨は温かだった。
「ミカ……、悪いけど」
「期待なんかしてない。勝手に解釈すんな、ばか」
「うん、わかった。わかったから離れて」
「期待なんてできなかった。できなかったけど……ずっと想うしかなかった……ユキがいなかったらわたし」
 わたし、生きていなかったよ。
 初めてつきあった男の子は、わたしを人形だと見なしているかのように扱った。それが嫌だったけど、わたしは人形とひとしく意志を表せなかった。その関係を、ユキが裂いてくれた。ユキがいなければ、わたしの心はそのまま死んでいっただろう。
 ユキはふーっと息を吐いて呟いた。
「帰るに帰れねぇよ、そんなにしがみついていたら」
 そのとき、わたしの頭にそっとユキの手が降りてきた。柔らかく撫でられて、ユキに愛されている、と思った。人形としてではなく、女としてでもなく、「わたし」という人間として、愛されていると感じた。

「帰らなくていいよ」とわたしは笑った。 

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