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【掌編小説】神様のなみだ

 私が子供の頃住んでいた街には子供用の図書館があった。今はもう普通の図書館に建てかわってしまったけど、私と健ちゃんは、学校が終わるとその図書館によく通っていた。とはいっても図書館で過ごす時間はわずかで、椅子に並んで座ってそれぞれ絵本を黙って読み終わった後、図書館裏の雑木林に行き、追いかけっこをした。初めは私の方が速くて、健ちゃんは後ろから息を切らしながらついてくるのがお定まりだったのだけど、だんだん健ちゃんの足は車輪が回転するように速くなり、追い越されてしまった。琴美はのろまだなあー、振り向くと健ちゃんはしばしば優越そうに、言った。
 

 追い越されるようになって、何年か過ぎた後、健ちゃんは転校することになった。健ちゃんのお父さんが亡くなったのだ。
 

 皆のことは忘れません。絶対に。
 教壇の前で立って健ちゃんはそう言い、堂々としていた。私は机の木目をじっと見つめて、涙をこぼさないようにした。琴美は泣き虫だなー、そんなふうに健ちゃんから茶化されるのが嫌だった。健ちゃんは、お父さんが亡くなっても、転校することになっても、動じず堂々と皆の前に立って喋っているのに。私だけ、愚図のように泣くわけにはいかなかった。
 その日もいつもと同じように、健ちゃんと図書館に行った。いつも以上に私は健ちゃんと話さなかった。健ちゃんも、本から顔を上げることをしなかった。
「琴美、見せたいものがあるんだ」
 図書館を出ると、健ちゃんは私にそう言って、そっと手を繋いで雑木林の方へ導いた。健ちゃんの手のひらは、しっとりしていて、温かかった。私の指先は冷たかったから、健ちゃんの手のひらの温度を奪ってしまうのではないかと思って、一度離そうとしたのだけど、するりと抜けようとする私の手を健ちゃんは求めるようにきつく握りしめた。
 雑木林に入ると、丈の高い草が、私の膝元を切るように掠めた。健ちゃんは、私の手を引っ張り、草を軽く手でよけて、前に前に進んでいった。
 真ん中まできたら、そこだけ抉られたようにぽっかりと草の生えていない場所があった。健ちゃんは、そこで立ち止まり、長い首を伸ばして、ねずみ色をした厚い雲の流れをじっと見ていた。
「何があるの」
 と、聞くと。
「もうすぐ」
 と、健ちゃんは答えた。それで、私は黙って、健ちゃんが「見せたいもの」が起こるのをじっと待っていた。雲は流れていき、私たちの頭上が厚い不穏な色をした雲で覆われてしまった。河水のような生臭い匂いが辺りに立ちこめていた。健ちゃんは、瞼を閉じた。瞼の縁に揃って生えている濃い睫が、きれいだと思った。
 その時、健ちゃんの頬に雨滴が落ちた。
 健ちゃんは、瞼を開き、頬についた雨滴を指先で拭って。
「神様の涙だよ」
 と、私に向かって囁いた。雨はつとつとと、降り落ちてきて、私の鼻や額や頬も濡れた。
「ただの雨じゃん」
 そう私は笑って言ったけど、健ちゃんは顔を空に向けたままで。
「お父さんが死んだとき、雨が降ったんだ。その時、お母さんがこれは神様が悲しんでいるからなんだって教えてくれた。雨は神様の涙なんだって」
 と、顔に何の悲しみの色も見せずに言った。私は黙って、健ちゃんの横顔を見つめた。神様の涙に濡れた健ちゃんの横顔は、プラスティックのように白くひかっていた。そっと手を伸ばして、健ちゃんの頬に触れてみると、柔らかい弾力があった。その奥に流れている温かい血も、たしかに感じた。
「神様の涙」
 私は口のなかで復唱した。健ちゃんは、静かに笑った。
 

 その後、私と健ちゃんは約束した。手紙のやりとりをすること。電話もすること。面白かった本はその都度報告し合うこと。そして、大きくなったら結婚すること。
 でも、それらのほとんどは続かなかった。お互いに新しい友達ができて、新しい人間関係を築くようになってからは、連絡を取ることができなくなった。最後の約束は、大学を卒業してすぐ同じゼミの男の子と結婚した私には守れなかった。
 でも、今でもふと健ちゃんのことを思い出す。
 例えば、買い物の帰り道、唐突に降り出した雨に喚起されて。
 ――神様の涙だよ。
 そう、すぐ傍で健ちゃんが囁いているような気がするのだ。そして私は空を仰いで「神様」と呟く。
 神様の涙は厚い雲から絞りだされるように、降ってきて、それが次第にとめどもなく流れて、街を白くさせる。ふいに閉じたまなうらに、あの頃の健ちゃんの横顔が映し出される。
 ――神様の涙だよ。
 白くひかる雨に濡れた横顔。あの時私は、健ちゃんがどこか遠くに行ってしまったと思った。だからほんとうにそこに存在しているのか確かめるように触れてみた。健ちゃんは確かにあの時傍にいた。
 ――神様、誰のことで悲しんでいるの?
 それが旦那でも、友達でも、遠くにいる両親でも、そして、健ちゃんでもないことを、私は祈った。

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