悲しかった話。

気にしないように、と思っていましたが、ある記事に辿り着いてしまいました。おそらく、わたしに関する(あともうひとりの方も)ものだと思います。記事の内容では、わたしがある方の作品に「この作品の雰囲気が好きです」というひとこと感想を残したこと、そしてその方からわたしに対しての好意的なコメントが返ってきたことが問題視されているようです。

ここで、わたしが悲しかったのが、それが「慣れ合いで気持ち悪い」と言われていたこと。(※そう指摘したクリエイターさんは、以前わたしとも絡みがありました。
それが、ショックでした。

正直な話、わたし自身からコメントを入れるのが得意ではなく、今までずっと無言でいいな、と感じる記事に「スキ」を押すスタイルを貫いていました。そして記事の主が"慣れあい”と指摘したコメントのやりとりが、noteを始めてきて、はじめて自分からしたコメントでした。(noteを始めて6年?くらい経つかな。

それだけに、そう解釈されてしまったのがショックだった。そのほかにも、わたしがその作品に好感を持ったことをうわべだけの褒め言葉と受け止められたことも。

コメントを残そうと思ったのは、はずみでした。はずみになるくらい、その作品に惹かれるものがあったからです。もともと、わたしがコメントを残した作品を書かれた方は、独自の感性でもって言葉を紡ぎ、そのひとのスタイルが確立されていた。なので、好意的に読みに行っていました。作品の内容は少し違うかもしれませんが、たとえば、島本理生さんの小説を読んだあとのような甘さ、切なさ、うつくしさがあった。その方の作風がわたしの好みと合っていたのもあるかもしれません。

その作品にコメントを残したのも、本心からいいな、と感じたからです。

なぜ、慣れ合いと指摘したのか? それは、わたしとその方が文学賞を目指す物書きだったこと。指摘された方は高みを目指す物書きなら褒め合うのではなく、批評し合うべきという考えなのでしょう。切磋琢磨し、お互いを高め合うべき、このような考えを持っている、とわたしは受け止めました。

でも、好意的な感想を残すことがそんなに罪なのでしょうか。わたしには理解できません。もし、批評を求めるのなら、批評が欲しいと募る、知らない人とも共有できるネットというオープンな場でなく、個人でやりとりする。このようなやり方のほうが、わたしはいいと思っている立場です。それゆえ、今回の件はショック、そして理解できずに悲しかった。

わたしを指摘したその方は、以前にも批判ではないけど、わたしに関してモヤモヤする、というような記事をいくつか書いていました。以前、その方とのやり取りでうまくいかなかったことがあった。それゆえ、そのような記事を書かれてしまった。正直、それを無言で読みながら「事実と違う」と感じるようなこともありました。でも、そのひとの中では正しい、と思っている、そう解釈しているので、あえて、わたしは否定しにはいきませんでした。それから、フォローを外されたので、わたしもそっとフォローを外して、それで(フォロー外ではあるけど)記事をちょくちょく見に行っていました。

でも、今回の件は。悲しかったです。もしその方が見ているのなら、悲しかった、ということだけ伝わればいいな、と思います。理解はできずとも、その方の信念を否定するわけではありませんから。

悲しい! でも、これを書いてすっきりしました。最後に巻き込むようになってしまった、いい作品を書いてくださったクリエイターさん、こんな記事を書いてすみません……。

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