さくらという少女
その少女はさくら、といった。
「ほんとうは名前なんかないけど、つけるならそれね」
淡く、儚げに、ふふと笑うと春の風が吹き、さくらの長い髪を持ち上げた。さくらの頭の上から桜の花びらがいくつも散った。春馬はそれを、目の奥に留めた。
桜の樹にすみついて、四十年だという。
本当は、天国に帰るはずだったのだが、何かの手違いで桜の樹を守る精になってしまった。春になると、この土地の人がビニールシートや酒、つまみなどを携えてさくらの元にやってくる。さくらは、その時、一秒でも長く、桜の花が枝から離れるのを遅らせる。そして、花びらが離れる時は人々の目につくように、それを淡くひからせる。それが仕事なの、とさくらは言った。
「春以外の季節はどうしているの?」
春馬が問うと、さくらは目を三日月形にして、
「だいたい、眠っているかな」
と答えた。
重ねて何か質問をしようとすると、春馬のポケットにしまってある携帯が震えた。画面を見て、母親だということを知ると、急いで自転車のサドルにまたがり、
「また明日来るよ」
と、さくらに言ってその場を立ち去った。
だけど、明日がくると強い雨が降り、その次の日も雨が続き、春馬がそこを訪れることはなかった。春馬はさくらのことを忘れてしまった。
春馬が中学に上がった頃、春馬は初恋を経験した。
入学式に全校生徒の前で、その少女はスピーチをしていた。長い髪の毛を高い位置に一つで結わき、凜とし佇まいで、透き通った声で話していた。何事にも動じない、そういう雰囲気に、春馬は憧れた。
だけど、このことは誰かに話せることではなかった。話した瞬間、自分のこの想いが単なる感情の高ぶりに思えてくるのがいやだった。
校舎の外に咲き乱れる桜を見て、ふと思いだし、春馬は入学式が終わるとさくらがいるあの桜の樹の元へと歩いていった。
「お久しぶりね」
さくらは、二年前と変わらない姿でそこにいた。
「大人になったのね」
春馬の制服姿を見て、さくらはそう言ったのだと春馬は思った。しかし、
「恋をするということは大人になるということ」
と、ずばり、春馬の心の変化を察知していた。春馬は顔を赤くして「ちがう」と首を振った。さくらはくすくすと笑った。
「じゃあさくらは、大人なの」
子供じみた声になった、と春馬はとっさに後悔した。さくらは、白いワンピースの裾をひらひらと揺らしながら、
「だって、四十年もここにいるんだもの」
と、淡く微笑みを浮かべながら言った。
「ばあさんだね」
春馬の憎まれ口に、さくらは絶えず微笑みながら、「そうね」と頷いた。春馬はなんだか、自分が下のような気がした。それで、「もう来ないからな」と言って、背を向けた。わかったわ、という少し寂しげな声がして、振り向いたが、さくらの姿はなかった。さくらが消えたことに、春馬は少し、罪悪感を覚えた。
春馬が恋をした少女は、勤勉な子だった。真面目すぎるといってもいい。まだ小学生らしい絡みを楽しむ男子が、少女をからかうと、口を噤んで、目つきをきっと鋭くした。どことなく、とっつきにくく、昼休みも本ばかり読んで、友達と戯れることはしなかった。春馬はそれを含めて、少女のことを、好きだと思った。
少しでも少女と一緒にいたかったが、進路で分かれてしまった。少女は、私立の女子高を選んだ。いくら勉強を頑張っても、女子高じゃあなぁ、と春馬は苦笑いをした。
卒業式前に、少女と駅前の駐輪場でばったり会った。
チャンス、と思ったが、少女はなぜか春馬のことを睨んでいた。
「あなた、いつも私のこと見ているでしょう」
その口調はどこか、責め立てるように聞こえた。春馬が自分に好意を持っていると知らないようだった。
「その、癖なんだ。人の顔をじろじろ見てしまうの」
何の弁解だ、と思いながら春馬は理由を話していた。少女は鼻を鳴らして、自分の自転車をむりやり押し込んだ。
「その癖、直したほうがいいよ。相手は、ちょー気分悪いから」
そのまま立ち去ろうとする少女を、思わず春馬は呼び止めた。「なに?」とは言わず、代わりに少女は春馬をねめつけるように見た。春馬は自分の襟口にあるボタンを触りながら、「その、バッチが欲しくて」と口に出していた。
「バッチ?」
春馬は少女の鞄につけられた、缶バッチを指差し、
「それ。かっこいいなってずっと思ってたんだ」
暫く少女は春馬を凝視して、それから鞄の缶バッチを取り、春馬のほうに放り投げた。
「ありがとう」
春馬はそれをポケットにしまいこんだ。
いつもの場所に行くと、さくらが立っていた。
「久しぶりね」
春馬は頷いて、桜の樹の下に、少女のバッチを埋めた。
「どうして埋めるの?」
手についた土をズボンで拭うと、
「もう終わったから」
と、春馬は言った。
「桜は、来年も咲くわ」
さくらは、全てを見通したように、そう言った。
春馬は、桜の樹を見上げ、目を細めた。
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