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頑張れ、新人くん。

 つまらない男よ、と高橋先輩は言っていた。女なら誰にでも優しくて、学歴でひとをはかるような、そんなつまらない男。でも高橋先輩はそんなつまらない男の子どもを妊娠してしまい、うちの会社を辞めてしまった。あんまりだ、と思ったが私はその言葉を口にしまいこんだ。
「鈴木先輩って陸上やっていたんですか?」
 パイプ式ファイルを抱えて野沢君は私の顔を覗きこむように見た。小学生が見知らぬ動物にさわる時のような、好奇心と微かな怯えの混じった瞳。
「どうして」
「いや、だってふくらはぎの筋肉すごいっすよ」
 その時、私はいつもより短めのスカートを履いていたことを恥じた。けれど、その言葉を気にしていたら、新入りの野沢君になめられてしまうので、鼻で軽く笑い、エレベーターのボタンを押した。
「野沢君は何部だったの?」
 高橋先輩と入れ替わるようにして、野沢君がこの会社に入ってきた。ひとなつっこい、だけど少し腰が引けている、ぺらぺら余計なことまで喋る、肝心なことは報告しない、そしてまだ二十ニ歳。
「俺っすか? 逆に俺って何やってそうに見ますか?」
 野沢君を一瞥してエレベーターの中に入る。こういう軽薄そうな男と、うつくしい香りをいつも漂わせててきぱきと仕事をこなしていた高橋先輩。どう考えても失ってしまったものの方が大きい。野沢君が三人いたとしても高橋先輩の穴は埋められない。
「軽音部とか?」
 点滅する数字を見ながら、てきとうに答える。おっ、と野沢君は反応する。そうっす、軽音やってました。その声がなんだか無性に嬉しそうに聞こえる。
「こうみえて俺ボーカルやってたんすよ」
 こうみえて、というところで少し笑ってしまう。私には野沢君はそうにしか見えないというのに。
「鈴木先輩は、音楽とか好きっすか?」
「そうだねー、好きかもね」
「好きかもね? なんでわからないんすか? 好きなら好きってわかるでしょ。ふつー」
 はっきりと言わない私を非難しているのではなくて、野沢君は本当に理解しがたいと思っているようだった。野沢君のように、物事を簡単に処理できたらどんなに気楽に生きられるだろうか、と私は目線を上げたままで思った。
「鈴木先輩ってやっぱ、あゆばっかり聴いてたんすか?」
 あゆ? 野沢君の口から出てくる名前は見知らぬ場所にいる人のように聞こえた。エレベーターから出た後で、浜崎あゆみのことを言っているのだと思いいたった。
「あゆねー、いっぱい聴いたね。安室ちゃんとかスピードとかも」
「うわーすっげ世紀末の響きだわ!」
 二十二歳。今度は多分に憎しみをこめながら心の中で呟いた。内心で野沢君を軽んじながらも、でもどんなことをしても私には勝てないものを彼は持っている。
 たとえば、時間、若さ――ゆえに向こう見ずになれること。三十を越えてしまった私は、次第次第に守りに入るようになった。いつだったかテレビでピン芸人が言った科白のように「細く、長く生きられればいいっす」と思いながら過ごす日々。
「あっ、今何考えていたんすか?」
 廊下を並んで歩きながら、野沢君は私のふと落としたため息の理由を探る。
「俺、もしかしてさっき失礼なこと言っちゃいました?」
 まさか、自分が若い子に嫉妬するなんて思っていなかった。違うの、そう言ってまた「ふぅ」と息が洩れる。違う。野沢君の問題とかじゃなくて、これは私の問題なのだ。
「世紀末の響きって言ってしまってすみません。でもまだ先輩若いじゃないですか! 気を落とさないでください」
 本当に野沢君は言葉が多い。ふてくされたように思われるのが癪で、軽く微笑んでみる。野沢君は安心したような顔をする。この子は本当に簡単だ。
 オフィスの扉を開く前に、野沢君はひとつ提案した。
 今度一緒にカラオケ行きましょう。あゆ歌ってくださいよ。俺、RADWIMPS歌うんで。
 それで私は野沢君の顔をじっと見た。何も考えてなさそうな顔だった。
「ほら、鈴木先輩いっつも死んだ顔して働いているから。たまには気晴らしに」
 とりあえず「保留」と言った。野沢君はふにゃっと笑った。
 オフィスに戻ると、いつも通り野沢君はミスをして上司の永野先輩に叱られて、「すみませんでした」と言いながら、でも何も気にしてないような顔をしていた。
「いつもあんな風に気楽な表情をして大物新人よねー」
 同僚の加奈子はこっそりそう私に耳打ちして、笑っていた。私もつられて笑った。笑いながら、でも正直野沢君が羨ましかった。
 
 帰り、野沢君を駅のホームで見かけた。声をかけようとしたが、やめた。
 ちくしょう。
 野沢君の唇がそう動いていた。
 まもなく電車がホームに滑り込んで、家路に向かう人々を乗せて動き出した。
 私は野沢君の唇の動きをずっと繰り返し思い出していた。そして、心のなかで、そっと「頑張れ」と呟いた。
 頑張れ、野沢君、と。

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