その手を離さないで【前編】

 夜が始まってくると、蝉の声が止み、代わりに雨が窓を叩きつける音で部屋が満たされる。することもなくて、本棚から読みかけの海外小説を抜き、開いて数ページだけ文字を追い、また閉じてベッドに身体を横たわらせる。雨音が頭の芯を震わすのを感じて、それからまた本を開く。そんなことを繰り返して、いつも通り夜を過ごそうと思っていた。
 一瞬、カーテンの裏で光が走り、雷がごおんと音を立てた後、部屋のインターフォンが鳴る。こんな夜に誰が? と不穏に思って、ふいに浮かんだ顔があり近くのスマホを見ると、裕樹くんの名前が表示されていた。
(終電、逃した。ごめん、今日は泊まらせて)
 メッセージを読みとり、無意識に吐息が漏れる。ベッドから降りて、玄関のドアを開く。そして、後悔する。
 

ーー俺の手を離さないでね。いつも怖いんだ。

 目の前の濡れそぼった裕樹くんの顔を見ながら、あの子の声が蘇った。それだけで、身体が弛緩してしゃがみこみたくなる。
「ーーごめん、急に。バイト仲間と飲んでたら、こんな時間で」
 裕樹くんが声を発して、わたしは彼のことをようやくちゃんと見れた。濡れた長い前髪を指で払い、いつものように弱そうに笑っている。それから、わたしを伺うように「泊まっても大丈夫?」と聞いた。帰ってもらう理由もなく、わたしは笑って「いいよ」と彼を中に通した。

 スウェットとタオルを渡し、浴室で裕樹くんに着替えてもらう。その間、部屋に散らかった衣類をまとめ、ベッドのタオルケットを整えた。そうしながら、裕樹くんを部屋に入れず、ひとりでいたほうが良かったんじゃないか、と何度も考えたりした。
 浴室から裕樹くんが戻ってきたとき、当たり前に自分のスウェットの丈が足りなさすぎて、笑ってしまった。裕樹くんは、少し怪訝そうに「そんなに変?」と言いながら、わたしにつられて笑った。
 変じゃない。似合っているよ。
 笑いながら茶化すと、裕樹くんに抱きしめられた。裕樹くんの熱と身体の強さを感じ、またあの子のことを思い出す。いつもひとりになるのが怖くて、どうにかわたしを引きとどめようとしていたあの子。わたしを求める理由が、孤独になりたくないからだというあの子。でもーーそれはわたしも同じだった。

「なっちゃん、ちゃんと俺の目を見て?」
 遠くの人を見ていたことを見透かされているのか、裕樹君は小さく笑いながらわたしに言う。裕樹くんの目は、一重まぶたなのに、くっきり大きい瞳をしている。そして、少しだけ暗い印象を持つ。求められたように見ていたら、裕樹くんはわたしの頭を優しく撫でながら、唇を重ねた。ゆっくり、それは行われた。

 ○

 裕樹くんと出会ったのは、今年の春。
 K駅で友だちと待ち合わせしていて、駅構内の柱にもたれてスマホをいじっていると、「ごめん。今日体調崩していて行けない」と友だちからメッセージが送られてきた。それと、ちょうどいいタイミングで舌打ちの声が聞こえた。一瞬、自分が思わず舌打ちをしたのかと、周りを見渡したら、隣の柱の前に裕樹くんがいて不機嫌な顔でスマホを操作していた。わたしと同じく誰かを待っている(いた)らしい裕樹くんを、少し眺め過ぎたのかもしれない。裕樹くんがわたしに振り向き、さっきの舌打ちが大きかったせいでわたしが眺めていることに気づいたのか、恥ずかしそうな顔をして「すんません。友だちがドタキャンしてちょっと……」と聞いてもないのに、説明をし始めた。

 わたしも同じようなものです。
 と、自分も眺め過ぎてしまったことを恥じ、笑いながらぼそぼそと言うと、裕樹くんはとたんに笑顔になって「そうなんですか」「ついていないですね、俺ら」と言ったのち、「せっかくだから、一緒に街歩きます?」と提案してきた。
 断る理由もなかったから、「あ、はい」となんとなく承諾してしまったものの、その頃から裕樹くんは(慣れている)という感じがした。
 裕樹くんは、その街について熟知していた。歩いている途中、細い路地を指さし、「ここを抜けた先に、うまいピザ焼いている店があって」とわたしを誘導させた。裕樹くんが言った通り、そのピザ屋さんは、トマトソースがほどよく甘くて、生地が香ばしくて、弾力があって、とても美味しかった。それから、裕樹くんが先導し、隠れ家のようなブックカフェにも寄ったし、材木で作ったものしか置いてない雑貨屋にも寄った。最後にカクテルがメインのクラシックなバーに行ったとき、ようやく裕樹くんが今日会うはずの友だちについて話してくれた。

「実は、女の子だったんですよね。SNSで気が合ってご飯食べようってなったんですけど」
 でも、とわたしを大きな瞳で見据えてから。
「那津子さんと会えたから、今日ラッキーだった」
 と笑った。わたしはどう返したらいいのか迷い、グラスの縁をずっと指でさわっていた。

 それから、裕樹くんとはときどき会うようになった。
 つき合おう、とはどちらも言わなかったし、裕樹くんも恋人とか型にはまったことが好きじゃなさそうだった。少なくとも、わたしからはそう見えた。でも、裕樹くんと会うたび、ホテルに入ったり、裕樹くんの部屋で一日過ごしたりもした。わたしも、彼との間に名前をつけようとは思わなかった。ーーまだ、わたしの中には、あの子がいたから。

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