共感しない、のではなくできない。
数年前に村田沙耶香の「コンビニ人間」を読んだとき、がーん、という衝撃が走った。わかる、と思ってしまったからだ。
あらすじははぶくが、ふつうの人間の感じかたとずれている主人公の描きかたがすごくリアルで説得力があった、というのもわたしが衝撃を受けた理由のひとつではあるけれど、なによりも、その主人公のずれ、他者と共感できないことが、自分自身にも大いに思いあたるところがあって、面白く読みながらも「これ、わたしのことだ……」と少しの痛みを感じた。
数年前の、その衝撃と痛みをどうして今になって、思い返すのかというと、去年から少しずつ、自分は共感できない人間なのだなと改めて思いしらされることがよくあったからだった。
たとえば、自分と似たような精神疾患を持つひとに関わることが、去年けっこうあって、そのときに相手はわたしが精神疾患持ちだから、という安心感があってか、心をひらいて自分の病気の悩みを話してくれたことがあった。でも、わたしはそのひとの苦しいしんどい気持ちに、心から共感することができず、「つらいね」と言葉は返したけれど、それは表面的な共感や同調にしかならず、なんとなく申し訳なくなった。共感できなかった理由のひとつに、わたしはそのひとと似たような病ではあったけれど、症状が違っていた、というのもある。でも、それでももっと温かい返しができたのではないか、もっとそのひとのしんどさを汲み取ってあげることができたのではないか、とふり返ってみて思うときがある。そのときのわたしは、相手のしんどさよりも、相手のしんどい話の重みに耐えられず、どうしたらいいのか戸惑うばかりでどうにかそのひとと距離を置こうとしていた。
先日、病院で診察を受け、そのときに主治医の先生からいわれたことは「周囲の環境と合わせるのが苦手という特性がある」ということだった。確かにそれはわたしも社会人経験を積む前から苦手意識を持っていた。とくにたわいのない会話を交わすのがすごくしんどくて、高校生時代から周りの子と話題に合わせるのができずに病んでしまったこともある。社会人になると、休憩時間の会話に苦しんだ。わたしが会話に口を挟んだ瞬間、職場の空気が変になったことがたびたびあって、あぁ、わたしはふつうのひとの感覚とは違った空間で生きているんだなあ、と痛切に感じる日々が続いた。
でもだからといって、自分に対して共感を求めていないのか、といったらそうとはいえない。やはりしんどいときには、表面上でもいいから、しんどいんだね、という共感は欲しい。なんというか、わたしのしんどさのぜんぶを受け入れてくれなくていいから、言葉の上だけでもそのしんどさ受け取ったよ、というやりとりが欲しい。そんなことを書いている自分がすごくめんどう臭いというのは自覚している。
逆に芸術家気質のひとはなんとなく、「共感を求めない」スタンスが多いなという勝手な印象がある。わたしの好きな作家である江國香織は「共感から遠いところへいきたい」というようなことをいっていて、共感という安易な場所に留まりたくないのかなあ、ということを思った。
こんなことを書いていると、ますます共感っていったいなんなんだろう。ひとと通じ合うってなんなんだろう、という思いが膨らむ。わたしが小説を書いたり、現にこうやって記事を書いたりすることも、どこかで誰かにキャッチされたい、という動機があるから書いているわけで、でもそれがほんとうの意味で理解され感じてもらうには自分の伝える能力ではじゅうぶんではないこともなんとなくわかるし、わかるけれど、でもこうやって発信したい。SNSでは、かんたんにお気に入りだよ、共感したよ、という受け手の反応がみられる。受ける側がどう受け取ったのかはわたしにはわからないけれど、でも誰かにキャッチされた、という事実が発信したわたしにも届くので、このシステムはうれしい。
と、思いつくままに書いたのでうまく伝えきれているかわからないけれど、自分の考えを書き起こす、というのもなかなか楽しいなと感じたのだった。
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