別れの音
もうやめよう、こんな会いかたは。
こらえきれずそう初めにいったのは、わたしではなく和夫のほうだった。和夫は、学生みたいな幼い顔をめいっぱいしわくちゃにして、苦しそうにいうのだった。もうやめよう、俺たちもうそんな仲でもないんだし。
それでもわたしは和夫のシャツの裾をひっぱり、やめたくはない、などというのだ。自分でもそれは、ただのわがままだとわかっている。とっくに恋人同士でもなくなったわたしたちに、無理矢理恋人の形を求めようとする自分を、わがままだとしりつつも、和夫を離せない。和夫の身体を、自分の身体とあわせて、音色を奏でることをやめたくない。かずお、かずお、とわたしは和夫のシャツの裾をひっぱり、揺らし、和夫のいったことを深刻に受け止めていないふうを装う。ほんとうは、わたしだって傷ついている。傷ついているけれど、そんなそぶりを見せたら、もうほんとうに終わってしまう。この関係が。
花ちゃんを、もう好きじゃなくなった。自分のなかのなにかが変わってしまったんだ。
それが和夫からの別れの言葉だった。季節は春が過ぎようとして、和夫と一緒に歩いた公園の、横をずっと並ぶ木々の青さに目が眩んだ。わたしはそのメールを読んだあと、遅れて唇をかんだ。どうして? を三回送った。それから和夫を罵倒するようなことも、いくつか送った。和夫はごめんすらいわなかった。わたしの心が荒れだしたとき、和夫は仕事をしていた。
夜に電話で、わたしの存在が重荷だった、といわれたとき、わたしは電話の向こうで少し泣いた。わたしは、和夫にそっとふれていたつもりだった。和夫がときおり仕事のことで余裕がなくなっているふうを見せるので、邪魔はしたくはない、と思った。それでも「重荷だった」といわれ、わたしは、わたしの努力はすべて無駄だったのだ、と思った。
それから、わたしは和夫につきまとった。わたしは定職につかず、コンビニのバイトをときどきやる程度だったので、つきまとう時間はたくさんあった。和夫が働いている会社のビルから、和夫がでてきたとき、わたしは微笑んだ。和夫は嫌な顔をした。目のあたりの筋肉をぴくり、と動かして、やがてわたしから視線を逸らした。
最初は言葉をきいてくれなかった。バスに一緒に乗り、わたしが和夫の席の隣に座っても、和夫はいらいらしながら、視線を前方に移すだけで、話しかけたわたしの言葉をひとつも拾ってくれなかった。でもつきまとううちに、和夫は負けた。わたしに怒りをぶつけて、罵詈雑言浴びせかけた。でもわたしは、うれしかった。和夫がわたしに対して言葉を放ってくれるのが、うれしかった。
ホテルにいこう、大丈夫、時間とらせないから。
そう提案したわたしを、和夫は思わず笑った。笑ってから、「そんなところいくか」とつっぱったが、わたしに手をとられた和夫は、それから従順だった。ホテルの部屋では、恋人同士であったときの和夫とは違った。いくぶんかあらっぽく、いくぶんかつめたく、そして、それがほんとうの和夫だと思えた。
和夫の手ってあったかい。
わたしの身体にふれるそぶりが冷淡なくせに、手は温かだったので、わたしはそういった。和夫はとたんに赤くなった。ごまかすように、わたしにキスをした。恋人でなくなってからキスはあまりされない。そこに愛はないから。そして和夫はキスが下手だから。舌の入れ方が下手。舌の動き方が下手。長い時間キスをしていると、和夫の唇の端から、唾液が糸のようにゆっくりと落下していった。
恋愛感情っていうものが、そこになかったのなら良かったのにね。
友だちからいわれたことを、和夫の身体におされながら、思い出した。恋愛感情って邪魔だよね。男と女でも友だちでいられるのに。恋愛感情が芽生えるからややこしくなるんだよね。最初から友だちでいられたのなら、死ぬまで離れられないでいられるのに。そのほうがお互いにとってハッピーかもしれないのに。
ほんとだね、和夫。わたしたち、恋人にならずに友だちでいられたのなら、もっとずっといい関係でいられたのにね。
こんなふうに、お互いをつなげる理由を、身体に求めなくても良かったのに。こんなふうに、身体と心が離れていく感覚、離れていって、心がすり減っていく感覚など、しることはなかったのに。お互いを傷つけあう言葉などいわなくても良かったのに。そして、ふたりは、まるで兄妹のように、ずっとそばにいられたのかもしれないのに、ね。
もうやめよう、こんな会いかたは。
別れてから数ヶ月経ったあと、和夫はいった。わたしは、もう一度和夫からふられたのだ。笑って、かずお、そんなこといわないで、まだ楽しもうよ、といったわたしは、でも内心傷ついていた。
花ちゃん。
和夫は、わたしの顔をまっすぐ見つめた。真面目に。そんな顔しないで、とわたしは心のなかで思った。息が詰まるから。
花ちゃん、ひとの心はずっと同じ場所にいられないんだよ。花ちゃんだってわかっているだろう、ほんとうは。
わたしは、和夫の顔を叩いた。
和夫は怒りもしなかった。理不尽なわたしの態度を、行動を、怒りもしなかった。和夫は、ほんとうに「終わり」にしたかったのだ。
傷ついた、と今度は言葉にした。わたしは、傷ついた。
どうして? と別れを告げたときに、メールで打った言葉がもう一度頭のなかで駆けめぐる。どうしてわたしを好きになったの、どうしてわたしから離れようとするの、どうしてふたりは恋人でもない関係でもいられないの。どうして?
必ずその答えがほしいわけでもなかった。わたしは、どうして? と問いかけるだけで良かった。答えなど、ほんとはしりたくなかった。
別れ、というものを理解できない子どものままでいたかった。
やがて和夫は自分の荷物をひろって、部屋のドアを開けてでていった。ばたん、という音が、たったひとり残された部屋に、響いて、わたしはようやく泣きだした。
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