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【掌編小説】嘘の恋人

 琴葉が初めに愛した男は、A4のチラシ紙の裏にいた。子どもの頃、琴葉は学校を終えると、誰とも一緒に帰らず、自宅に向かう長い坂道をひとりで歩いていた。自宅の古いアパートのポストに入ってあるチラシを掴んで部屋に入ると、琴葉は帰り道で思い描いた男のことをそのチラシ紙の裏に書いていた。男の名前は、シュア。いつも青ざめている額に、聡明そうな大きな瞳。シュアは孤独で、琴葉が唯一の友人だと言った。琴葉はシュアに食べ物を与え、学校で起きた出来事のことを話した。それはすべて琴葉の創作で、シュアの前では琴葉は何の問題もない優等生の役だった。

 本当に何も問題もないのなら、シュアを作り出すわけがない。
 琴葉は学校では誰とも話せなかった。同級生の顔、先生の顔を見ると、喉に小石を詰められたように、声がかすれて言葉にならなかった。そのような不自由さがあったが、母には一切言わなかった。先生もまた、琴葉のことをどう扱っていいのかわからず、何度か注意をしてみたが、次第に無視をした。

 小学校を卒業すると、体育館に続く渡り廊下を歩きながら、桜の花びらが風のなかで踊るように舞っているのを見た。そして、そのなかにシュアが立っていた。
 ――琴葉、卒業おめでとう。俺もだけど。
 シュアは桜の木の下で佇んで微笑んでいた。ブレザー姿のシュアは、もうすでに中学生みたいに大人に見えた。
 ――中学校に行ったらあの約束守ってくれる?
 シュアは唇にひと差し指を添えて、ゆっくりと瞬きをした。シュアとの約束。それは、中学校に入ったら、シュアの存在をみんなに自慢するということ。琴葉はためらい、心もとなく頷いた。頷きながら、でもそれはみんなに嘘をつくことだと琴葉は知っていた。琴葉の半身はいつも夢のなかにいたが、シュアが実在すると信じきれるほど、現実から逃れられることはできなかった。
 ――楽しみにしているよ。琴葉の新しい友だちと挨拶ができるのをね。
 琴葉は意地悪な女の子に後ろから押され、自分の足が止まっていたということに気づいた。シュアのほうを振り返ったが、もういない。空想にしては、よくできていたのに。

 中学に上がったら、シュアの希望通り、琴葉はみんなに嘘をついた。わたしには恋人がいるんだ。琴葉と仲良くなりたい、と思っている子みんなにそう言った。久しぶりに外で出た声は、カタコトになっていたけど。
 初めのうちは琴葉の言うことを、みんな半信半疑に聞いていたが、そのうち琴葉が嘘をついているということがわかった。琴葉の語るシュアは、勉強もできて、足も速くて、優しくて、美しい。浮かれたように口走る人物造形は、完璧過ぎて幼稚な創作だと誰もが気づいた。そのうち琴葉は、遠回しに避けられ、誰も声をかけられなくなった。それでも琴葉は、シュアとの物語を愛した。

 高校に上がっても、口にはしなかったが、シュアの存在は琴葉の頭のなかにいた。ときおり、意識が現実から離れると、シュアが目の前に立って、琴葉に微笑みかけていた。高校生のシュアの髪は茶色に染められ、片方の耳にピアスを空けていた。琴葉もしたら? 俺とおそろいのピアス。そうすすめられ、琴葉も左耳にシュアと同じピアスを空けた。母から驚かれ、友人からは似合うよ、と誉められた。ふいに現れるシュアは、琴葉の耳たぶに揺れるリングに指を触れ、琴葉の髪を耳にかけてやった。その仕草を想像するたび、琴葉は熱に浮かされ、そのせいで鍵を忘れたり、定期券を落としたりした。
 勉強するときはいつもシュアが琴葉のノートを閉じようとした。俺がいるのに、勉強なんかして。今は会話を楽しもうよ。シュアは次第に、琴葉を束縛するようになった。友だちに長文のメッセージを打っているときは、シュアは隣で不快なため息を落とした。シュアのように長身の男子教師が横を通ると、あいつに視線を向けた、と見てもいないのに非難をする。琴葉のスカートの長さはシュアの望み通り膝下までで、夏になれば下着が透けないよう黒いベストを着ることを要求した。琴葉はそれに従い、シュアがそのように干渉してくるのは、愛している証拠だとさえ思った。

 大学に入ると、シュアの嫉妬深さは強くなった。サークルに入ることさえ禁じ、大学のゼミで他の学生と連絡先を交換したときには、本当に男好きになったもんだね、と嫌みを言ってきた。お風呂に入るときでも、シュアの声が聞こえ、琴葉のありのままの姿を愛しているのは俺だけなんだ、と琴葉を抱きしめながら繰り返した。琴葉はそのうち、精神のバランスを崩し出した。学校へ行くとシュアに嫉妬され、それが怖くて行けなくなった。シュアは悲しい顔を見せたが、琴葉の手を握りしめながら、俺のために行くのをやめてありがとう、やっと俺だけのものになったんだね、と本音は琴葉のその状態を喜んでいた。

 狂った琴葉はノートに書き出した。シュアの絵を描き、それに何本もの線を引いた。シュアの像を消していくように。それからノートを破り、でていって! と叫んだ。シュアが現れ、傷ついた顔を見せた。それから背中を見せ、姿は消えていった。
 翌朝目覚めたら、そこには嫉妬深いシュアではなく、小学生の頃の完璧だったシュアがいた。シュアはカーテンを引き、朝日でひかる窓を見せた。今日はいい天気だよ。春みたいな匂いがする。それから琴葉の手をとり、一緒に学校へ行こう、と言った。琴葉は本来のシュアが戻ってきたことに喜んだが、手をきつく握ると、シュアは朝日に消されていなくなった。それから、シュアはもう二度と現れなくなった。

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