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恋愛という文化

 俺、束縛とか嫌なんだよね。

 画面の向こうでゴトウは缶ビールを飲みながら言った。束縛とか嫌なんだよね。俺、まじめじゃないからさ。基本、自由にしたいのよ。アミならわかるだろ? 俺の性格――ゴトウは顔をしかめながら、黒縁の眼鏡を外し、目頭を指でぎゅっと押さえつけた。泣いているのか? と画面のほうに近寄ったが、ゴトウは目やにを取ったようだった。

 気がつくと深夜の2時。夜にいきなりゴトウから「死んじゃう」と物騒なLINEが送られてきて、何かあったのか? と詳細を聞くと、1年7か月つき合った彼女と別れたようだった。穏当に別れるのなら問題ないが、別れを切り出したら彼女がヒステリーを起こし、ベランダから飛び降りるだの、刃物を取りだすだの、さまざまな脅しをしかけてもめたらしい。別れの告げかけたがよくなかったのかな、とゴトウは首をひねる。おとなしくていい子だったのにな、と。

「何が問題で別れたかったの?」

まだ疲れが残っている顔のゴトウに聞く。

「……うーん、問題はなかったんだよね。別に仲もよかったし。でもさ、俺……なんつうか、人間って違う味を試したいときってあるじゃない?」

 要はゴトウが浮気をしたということだった。

「浮気? こんなのそのうちに入んないって。ちょっと飯食って一泊しただけよ? なのにさ、あの子憤慨しちゃってさ。もうなんていうか、疲れるのよ」

と言いながらゴトウはパーカーのフードを被り、さらに紐を首元で蝶々結びにゆわいた。そして缶ビールをひと口飲む。

「やーでも、そういうのも浮気にカウントする女の子もいるって。そこを見極めずに軽率な行動をとったゴトウも悪い」

 ゴトウを軽く非難しながら、頭の片隅ではこの話のゴールはどこなのだろう、と考えていた。明日は1時間瞑想をしたあと、「ナンシー先生と一緒に楽しく英会話を学ぼう」チャンネルで英語の勉強をしようと決めていた。そういうわけで、内心ゴトウの話を早めに打ち切りたかった。

「うんまあ、そうなんだけどさ。でも俺、つき合うときに伝えたわけよ。俺ってけっこう誠実な男じゃないよ? ってさ」

 ふしだらな男とは言わなかったけど。と、ゴトウはつけ足す。

「うん、それで」

「それでもいいよ。ゴトウくんといると安心するから。って言ったのよ、彼女はさ」

 わたしは感心したあまりに思わず「安心」と、平たい声で復唱した。

「ね? なんか勘違いしているじゃん? 俺って安心するような男に見える? 見えないっしょ?」

ゴトウは画面に顔を近づけてわたしに聞く。ゴトウの鼻の下に生えている砂鉄のような髭が気になった。肌も少し荒れている。嫌悪感に押されて「見えん」とはっきり言った。

 ゴトウは多少気を悪くしたけども、「……じゃん?」と割り切って、指先を画面向こうのわたしのほうへ突き出した。

「でもさ、それでもつき合ったんでしょ? ゴトウを勘違いしている女の子と」

 ゴトウは顎をさすりながら、「だってかわいかったんだもん」と逆に清々しいほどの正直さで言う。

「やなやつー」

 と棒読みで言いながら、なんでこういうやつばかりモテるんだろう、と世の中の不条理を思った。

「だってかわいい子は、そばにいてくれるだけで癒されるじゃん。ヴィクトル・ユゴーだって、作品のなかで登場人物に語らせているよ。美しさはそれだけで価値があるんだって」

 それ、出典元はどこなの? と聞いたら、ゴトウは「たしか、レ・ミゼラブル」と答えた。わたしは半分信じなかった。

「それでその価値を1年と7か月堪能して、飽きたのね」

「飽きたっていうか、たまには玄関に別の花も飾りたいなってちょっと思ったわけだよ」

 わたしはiPhoneの画面に表示されている時刻を見た。こんな話を聞いて、わたしは何を得るのか? ゴトウに搾取される自分の時間を思いながら、ゴトウを好きになった彼女を哀れみながら、ナンシー先生の健康的な笑顔ときれいな音声変化を思い出しながら。

「てかさ、アミは最近なんかないの?」

 話すのが疲れたのか、ゴトウはわたしに話題を向けた。なんか、の意味の含むところを考えると恋愛のことだろう。

「なんもないね。さっぱり」

「アミがさ、男つくんないのってなんか深刻なわけでもあるの? あ、これ聞いちゃっていい?」

 鼻毛が出ていたのか、ゴトウは鼻の穴を親指で押し込みながら、わたしに聞いた。わたしの恋愛事情にとくに関心があるわけでもなさそうだった。

「いや、事情はないけど。わたしの周りには恋愛という文化が存在しないのかもしれない」

 これにはゴトウも「ぷっ」と吹き出した。

「何それ! いやーあるでしょ、恋愛という文化。アミの職場でも怪しいやつらとかいないの?」

「あー、いるかもしれないけど。わたしには関係ない。ごめん、わたしの人生に恋愛という文化が存在しないに訂正してくれる?」

「ウケる。俺がその文化つくってやろうか?」

 ニヤニヤしながら、ゴトウはまた顔を近づけた。「よしてくれ。もう寝る」と言って、画面を切ろうとした。そしたらゴトウが画面に唇を近づけて、ちゅっとキスをするふりをした。おぞましくて、何も言葉を放たずに即座に消した。

 ベッドに寝転がると、自分の人生で恋愛という文化「らしきもの」がそういえばあったっけ、と思い出した。大学3年の冬だった。

 ――俺、アミのことが好きかもしんない。

 当時のゴトウは、髪を茶色く染めてパーマをかけていた。わたしに限らず、女子の前では「わんわん」と犬の真似をして愛嬌をふりまくようなやつで、相変わらずチャラかった。女子たちはゴトウをかわいがり、わたしも同じようにゴトウの頭をわさわさと撫でてやり、飼い犬のようにしてかわいがった。たまにゴトウは頭を撫でられると、目を細め、わたしの手にキスをした。キモい。驚いたあまりにそう言ったりもしたが、ゴトウはかまわずわたしの手を触ったり髪をいじったりして、懐いていた。

 —―友だちだと思っているけど、でもアミといるとほかの子と違う気持ちになる。自分でもよく整理できないけど、アミをひとり占めしたくなる。これって、恋なのかな?

 そう聞かれたわたしは、不覚にもどきどきして黙ってしまった。顔を赤くしているわたしを見たゴトウは、その隙を狙ってわたしの顔に顔を近づけた。すごくきれいにその手順は流れた。顔が離れたあと、わたしの瞳をじっとゴトウは見つめた。切なくて胸が苦しい、といわんばかりのメロドラマ的な眼差しだった。

 それ以来、恋愛という文化「らしきもの」を体験していない。

 あの日のゴトウがやったことに深い意味はないし、ゴトウはもう忘れているだろう。わたしが忘れていたように。

 枕元のiPhoneが鳴る。ゴトウからだ。「おやすみなさい。わんわん」――もし、ゴトウが覚えていたとするのなら。そう考え、その先を考えるのをやめた。わたしはベランダから飛び降りたり、刃物を振り回したりしたくはない。

 わたしは横たわりながらボディスキャンをして、眠りについた。

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