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黒い傘

 玄関の傘立てに置き忘れているあれに、私はだいたいの見当をつけていた。
 数週間前、母の客として来ていたあの男のひと。白髪や無数の浅い皺、それらに年齢を感じさせるものの、こちらに向いた時の表情は、子供のそれのように純粋なものだった。母は私に、挨拶しなさい、といって、私はただ頭だけを下げたけれど、男のひとは「どうもすみません。勝手にあがってしまって」といって、席を立とうとまでした。母は少しうろたえていた。帰らせたくない、という感じがなんとなく母の顔に出ていた。そして、耳たぶにはきらりと光るイアリングが揺れていた。
 それで、私は思ったのだ。そういうことなのか、と。
「お母さん、玄関のあれ、誰の」
 あれ? あれってなによ。と母は背中を見せながらいう。黒い傘、というと、母はガスを止めた。青い炎の音が、すぅっと息を吸いこんだように消える。
「そんなのあったかしら」
 とぼけながら、母はエプロンの前の部分で手を拭う。何も濡れてはいないのに、そういう仕草をするので、きっと母は動揺しているのでは、と私は推測する。
「あれって、前来たおじさんのじゃない?」
 単刀直入に聞いてみたが、おじさん? とまた母はとぼけている。私は諦めて、スマホを持って自分の部屋に戻る。
 自室に戻ると、カレンダーを眺めて、最後にあのひとが来たのはここらへんだったか、とその週を指先で丸く囲ってみる。二週間は経っている。母は男のひとを、お茶会仲間のひと、とだけ説明した。でもそれだけじゃない。母の「いいひと」。きっとそうなんだろうと私の直感は伝えている。
 私が中学生の頃、母と父は離婚した。それ以来、母はずっとひとりで私を育ててきた。私が二十歳になるまでずっと。
 紹介されてもいいと思っていた。母が選んだひとなら、たぶん、誰だって私は賛成できると思う。母が隠しているのは、私に対する遠慮か、後ろめたさか、それともただの恥じらいなのか……。
 わからないまま、時間が過ぎていった。
 傘立てには、そのひとの黒い傘が置いてあるまま。
 男のひとは、それ以来家に来ていない。どういうことだろう、と私はますますいぶかしんだ。私に気兼ねして、外で会うようになったのだろうか。でも、母が服装などに気をつかって外に出かけていく気配はないし、仕事もいつも通りの時間帯に帰ってくる。
 私は、傘立てに立てられている黒い傘の柄を持ってみた。柄には「K・M」というイニシャルの入ったテープが巻かれてある。
 とうとう母に「これ、返さなくていいの?」といった。母は視線を泳がして、あぁ、と口からこぼした。そうね、そうだったわ。といって、また視線を泳がす。なんだか、そこから逃げる口実を見つけだそうと頭を巡らしているみたいに見えた。
「K・Mって」誰、といおうとした瞬間、被せるようにして母はいった。「栗山さんよ」
 
私はスニーカーに足を入れて、黒い傘を持ち、玄関を出た。母に行かせたくはなかった。ほんとは全部、私の勝手な邪推だとしても、もし私の想像していた通りだとしたら。
 「栗山」という表札をじっと見て、インターフォンを押した。なかからショートヘアの女性がでてきて、私をみて「あら」といった。私はにっこり微笑んで、お久しぶりです、と会釈をした。栗山さんは――中学の時の担任の先生だった。だから、つまり。
「あらあら、あがって頂戴」
 そう嬉しそうに招く栗山さんの声に、奥から旦那さんが現れた。私の記憶のなかのあのひとの顔と見事に一致した。
「あの、玄関でいいんで。ちょっと報告をしに来ただけなんです」
 私は簡単に、するつもりではなかった内定が決まった話を栗山さんにした。隣で旦那さんも、それは良かったと相づちを打っていたけど、母のことには一切触れなかった。
 私は報告を終えると、玄関前に黒い傘を置いた。母が抱いていたもの。それがなんなのか、わかってもわからなくても、この心のわだかまりみたいなものは消えないのだった。

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