わたしの、優しい悪魔【前編】
その日のバス停には、誰もいなかった。わたしと彼以外には。
キャンパスから出たら鼻の奥が、つん、と痛くなって、手のひらで鼻を覆うと雪が指先についた。12月の初めに降った雪はまだ小さく、少し湿り気を帯びたそれは、石畳の階段に音もなく吸い込まれていく。わたしは剥き出しの手に、はあ、と温かい息を吐きかけながら、正門を抜け、目の前にバスが通り過ぎて行くのを、あ、と間抜けにも口を開いて見送った。そして通り過ぎたあとのバス停に、黒いマフラーを二重に巻いた彼を見つけた。
横断歩道を渡り、バス停の道に辿りつくと、彼がわたしのことをちらと見た。目が合った瞬間、心臓が大きく鳴る。冷たい瞳をしている彼は、怖いくらいきれいな顔をしていた。
彼のほうは、わたしのことをどう思ったのかわからない。すぐさま彼は視線を逸らし、粒子の細かい雪にぼかされた煉瓦造りのキャンパスに目を向け、耳にイアフォンを差した。
表情を歪めたわけでもないのに、横顔があまりにも、悲しそうに見えた。心の柔らかいところを、きゅっと、誰かに掴まれてしまったような息苦しさを感じた。
それが、彼――雪人との初めての出会い。
むろん、その日はバスが来ても雪人とは、一言も話していない。わたしは後部座席に座り、雪人の、何かに深く傷ついたような冷たい横顔を、そっと見つめていた。誰かの顔を見て、こんなふうに感じるのは、人生で初めてのことだった。
○
「わたし、実は彼氏がいるんだよね」
最近観た恋愛映画があんまり面白くなかった、という話題をしたとき、智子がそう切り出した。わたしはとつぜんのことで、びっくりして智子の顔をじっと見つめることしかできなかった。智子はそんなわたしの反応を少し面白く感じていたのかもしれない。小悪魔みたいな視線と唇の歪め方をして、「びっくりさせちゃった?」と聞いた。
「……うん。でも、いてもおかしくないけど」
同じ講義で知り合った智子に、声をかける男の子たちがいるのを、たびたび目にしてきた。モテるな、というのがわたしの感想だったけど、彼氏のことまでは考えが及ばなかった。
「どんな人?」
「うーんと。そうだな……、見た目はちょっと女っぽいかも」
「かわいいんだ?」
「ううん。きれい系のお姉さんって感じ? あと、性格はクール。余裕があるっていうか」
ふうん、と思った。あまり想像がつかなくて、興味もそんなに湧かなかった。
智子は背後に振り向いて、そして見たこともない顔で笑って、「先輩! こっち!」と誰かを手で招くそぶりを見せた。わたしはオムライスをスプーンで差したまま、顔を上げると、そこにはバス停で見た彼――グレーのチェスターコートを羽織った雪人の姿があった。
「わたしの彼氏」
うれしそうに雪人を紹介する智子の隣で、雪人はあのときと変わらず酷薄そうな顔つきのまま、うすく笑い、「初めまして」と挨拶をする。わたしはあやうく手に持ったスプーンを落としそうになったけど、わずかに立ち上がって、「は、初めまして……」と頭をぺこぺこと下げた。雪人は、ふっと笑い、わたしの、前の席に座った。
智子は雪人のことをわたしに説明した。
雪人は理学部に所属するひとつ上の先輩だということ。キャンパスで見かけた雪人に、智子は惹かれて声をかけたのがきっかけ。何度か雪人から「智子には、俺よりもふさわしい人がいるよ」というお定まりのセリフで振られたけど、結局は智子が粘り勝ったということ。それから――「今までまともに女の子と、つき合ったことがないんだって」ということまで、智子は雪人の前で話した。
「なんで? って聞いたら、『俺ってダメなやつだから』って言うんだけど」
「正直に答えたまでだけど?」
そう言って、雪人はちらとわたしのほうを見た。同意を求められているのかと思い、わたしはどきりと身体をこわばらせた。
「先輩がダメなやつなら、もっとクソみたいな男がわんさかいるよ!」智子らしいフォローに、雪人は笑った。でもその笑い方が――少しわざとらしかった。それに気づいていない智子は、口を尖らせたまま、ね、とわたしに同意を求める。
「うん。雪人先輩みたいな人がダメだなんて、わたしも思わないけど……」
そう言ったら、雪人の表情が剥がれ落ちた。束の間のことだったけど、わたしは背筋に冷たいものが通るのを感じた。
「こんなふうに、俺を買いかぶってくれるから申し訳ない」
視線を落とし、雪人はコップの冷たい水を一口飲んだ。そのあと、わたしは何か「いけないこと」を言ってしまったのではないか、とずっとぐるぐる考えていた。
○
その日の夜、眠れなくてキッチンの戸棚を探すと、睡眠薬を飲み忘れていたことに気づいた。はあ、と深く息をつき、睡眠薬を水で飲み流す。そしてベッドに座りながら、雪人のことを考えていた。どうして、雪人にあんなに冷たい印象を抱くのだろう。いろんな男の子から声をかけられる智子が選んだ人なのだから、きっといい人に違いないのに。考えて、そして雪人の剥がれ落ちた表情を思い出した。そのときの瞳も。智子は、雪人のことを「女っぽい」と言ったけども、でもそれは少し違っていた。女っぽいではなく、感情を抱かないアンドロイドみたいな――人間とは少し違う、そんな冷たい印象を抱くのが雪人なのだ。
こんなふうに感じてしまうわたしがおかしいのかな。
睡眠薬が効き出す夜中過ぎまで、わたしは雪人から抱く違和感を拭えず、ずっと答えの見えないことを考えていた。
翌日、1限目から講義を入れていたため、眠いのをこらえて、急いでバス停に向かった。途中、自動販売機で缶コーヒーを買って、少しでも眠気を薄めようと、バスを待ちながらコーヒーを飲む。多少睡眠不足で目眩を覚えながらも、来たバスに乗り込んだ。
バスの中は混んでいて、座れるどころじゃなかった。吊革に掴まり、周りの人たちから押され、吐き気を感じながら我慢をして乗り過ごそうとした。そのとき、心臓がどくどくと鳴り始め、手に汗が吹き出してきた。――ときどき、あるのだ。こんなふうに、パニックになってしまうことが。
(まさかこんな状況で……)
口元を手で覆うと人間は安心するのだと、子どもの頃誰かから聞いたことがあったのを思い出し、すがるようにそうした。でも、出れない状況、というのがますますわたしを混乱させた。目をつむって、数を数え、どうにかこの時間が過ぎていくのを待とうとした――そのとき。
「すみません、下ろしてください。具合悪い人がいるんで」
肩を誰かに優しく掴まれ、わたしは運転席の近くまで動かされた。頭の中は、まだ数字を数えていて、奇跡的に声をかけてくれた人が誰なのかさえ、知ろうとはしなかった。
その誰かが運転手とやりとりし、ドアが開かれ、わたしとその人は外に出た。外気のひんやりとした風が、救いのように、わたしの肺に心地よく入ってきた。しばらくして呼吸が緩やかに整い、ありがとうございます、と顔を上げたとき、わたしはまた息を止めてしまいそうになった。
助けてくれたのが、雪人だった。
「――大丈夫になった?」
はい、すみません、ありがとうございます、そのどれを先に言えばいいのか混乱して、頷くしかないわたし。雪人は、ふわっと笑って「それなら良かった。いつもこうなるの?」と聞いてきた。またわたしは頷き、「……実はわたし、ちょっと疾患を持っていて――」と説明しようとしたら、雪人はわたしの頬に手を伸ばして指で触れた。びっくりして硬直しているわたしをよそに、雪人は触れた指を見つめ、「――疾患? よくこんなふうに泣いて、情緒不安になったり?」と、わたしを試すような口調で言い、笑った。そう、わたしの病気を笑ったのだ。
「――はい。あの、先輩には迷惑をかけました。すみません。でも、もう大丈夫ですから、先輩は先に大学に行ってください」
頭を下げて早口でそう言いながら、わたしは後悔していた。自分の病気のことなんて話すんじゃなかった。智子にも言っていないことを、ましてや――この人に軽々しく言うなんてどうかしている。
回れ右をして雪人の前から立ち去ろうとすると、雪人に腕を掴まれた。「それが恩人に対する礼儀? あの雪の日に俺のことをじろじろ見ていたのに?」――驚いて、雪人のほうを振り向く。雪人はきれいな顔に笑みを浮かべて、でもその笑みには優しさの欠片も見えなかった。
「……あの日は、その」
「俺に興味があるんじゃなかったの?」
冷ややかに笑う雪人を、精一杯にらみつけた。腕を掴む雪人の手は意外に強くてふりほどくことができず、にらむことでしか、抵抗できなかったのだ。
そのあと雪人は「冗談だよ」と言って、手を離した。
雪人の手が離れた腕を、わたしは庇うように手で支えた。ウールのコート越しでも、雪人の指が自分の肌に食い込むかのような感じがした。
「冗談で……興味があるの、とか言うんですか。先輩は」
まぶしそうに細めた目でわたしを見て、雪人は。
「通じなかった? 真面目だな、君は」
――今までまともに女の子と、つき合ったことがないんだって。
なぜかその、智子の言葉がふいに浮かんだ。わたしから見る雪人は、女の子と遊んだことのある男の人の雰囲気がした。
「少なくとも、先輩よりは真面目かもしれません」
強く反論したいのに、雪人の顔をまともに見られなかった。何かを読まれてしまいそうで、それを怖れていた。
雪人は、ハッと笑い、コートのポケットから煙草を出した。ぱちん、とライターを開き、煙草に火を灯す。
「人の顔を見れないほど、真面目だもんな」
カッと顔が熱くなって、ムキになって雪人の顔を見た。雪人は、煙草を咥えたまま、こちらを冷たく見据える。そして、またわたしの心が揺らいでしまう。心の角張っているところがほろほろと解かれ、泣きそうになってしまう。雪人の顔がきれいだから? ――何かに深く傷ついている、悲しい表情だから?
「そんな顔をするくらい、俺のこと好きなの?」
冬の尖った風が、雪人の赤い唇から吐き出された白い煙を、どこかへ誘っていく。わたしは首を強く横に振って、「違うんです」と訴えた。
「先輩の顔を見ていると、悲しくなるんです」
次の瞬間、雪人からキスをされた。唇から離れたあと、煙草の匂いが鼻先に残る。雪人は意地悪そうに口を歪め、「ほら、俺のこと好きなんじゃん」と、わたしの唇をほのかに色づける、リップの痕を指でなぞった。
○
好きじゃない。どうしてあなたのことを?
あのあと、雪人は元通り紳士的な態度に戻り、「大学まで送るよ。心配だから」なんてことを言ったのだけど、わたしはそれで先輩ってやっぱり優しい人……なんて考えを翻すことは、むろん、なかった。近くのバス停まで雪人はついてきたけど、バスの中も一緒だったけど、まともな話を交わすことなく別れた。
大学の棟の中に入ったら、一目散にトイレへ駆け寄り、唇が腫れるほど指でゴシゴシと洗った。サイアク……。洗っても、雪人の柔らかい感触と煙草の匂いは消えない。
犬からのキスを除けば、あれがわたしの人生におけるファーストキス。だからなおさら、アイツ……、と恨んだし、悲しくなった。でもどきどきもしている。それは感じていたけど、認めたくなかった。だって、好きじゃない。好きなんかじゃない。
「雪人先輩と今度、東京スカイツリーに行くんだ」
マクロ経済学の講義を聴いている途中、智子はスマホを見ながらわたしにそう耳打ちした。へぇ……、とうすい反応しかできず、智子から視線を逸らし、教授の話に集中しているふりをした。
「泊まりもいいなと思ってて」
また智子は耳打ちをしてきて、どうやら雪人との約束がうれしすぎて、話したくてしかたないみたいだった。
「智子、浮かれすぎ」
「だって、好きな人ができたらそうなるじゃない。春花も誰かと恋愛したら? 世界が変わるよ?」
恋愛かあ、とわたしは呟き、確かに今朝のキスは、自分の世界が変わるような出来事だったな、と思った。智子には言えないけど。
「わたしは、恋愛とは縁遠いな……」
「なんで? 春花かわいいのにねぇ。もったいなーい」
そう智子に肩を叩かれ、なぜか心がチクリとした。どうしてだかわからないけど、笑ってごまかした。
講義が終わったあと、いつも通り智子に男の子が近寄ってきた。いつも名前が覚えられないけど、眼鏡が似合うインテリっぽい子で、智子とたまに学食でランチしているところも見かけたことがある。
「智子ー、次のマーケティング論行く?」
それに対し、智子は有無を言わさぬ速さで、
「今日はパス」
と断った。インテリ男子は、残念そうに眉を下げ、「お前、最近つき合い悪くない?」と言うのに対し、智子は。
「わざわざとってもない講義に行くのも、怠い」
そうふくれっ面して、机に肘をついて手の上に顎を乗せた。
A教授の講義聴きたいつったのお前じゃんか――そう不満そうに言うインテリ男子が前の席に座ると、智子の隣のわたしの存在に気づき、瞳をちょっと輝かせて身体を前のめりにさせた。
「君は、行く?」
は? ととつぜん振られたので、不機嫌な声が出てしまう。インテリ男子は、矢継ぎ早に「いつも見かけるけど、智子の友だち?」「ていうかタメ?」「名前なんて言うの?」と質問されたので、わたしはどうしたらいいのかわからず、助けを求めるように智子のほうに向いた。そしたら、智子はなぜか眉をひそめ、暗い顔をしていた。
「あの、わたし……」
インテリ男子に振り向き、断ろうとした。
「良かったら、俺と一緒に――」
「気をつけて。この子、男嫌いなの」
誘いの言葉に被せるようにして、智子は言った。わたしは、その断固とした言い方にびっくりし、智子のほうを向いた。
「へ? マジ?」
「そ。話しかけられるだけでも無理なんだって。アレルギー起こしちゃう。今もほら、喋れてないじゃない」
「あの、別に……」
なんでこんなことを智子は言うのだろう、と思いながら否定しようとした。そしてすぐに、智子はわたしを守ってくれているのではないか、と考えて口を噤んだ。
「わー、なんかごめんね。俺空気読めてなかったわ」
そう言って、インテリ男子は席から立ち上がり、立ち去った。
わたしは智子に向き直り、「ありがとう、助けてくれて」と言ったら、「別に。友だちなんだから当然でしょ」と笑って、でもすぐその笑みは不機嫌そうな表情に変わった。
窮地を助けられたものの、心にもやもやが残った。
○
これから雪人先輩と、映画観に行くんだ。
智子はそう言って、教室を出て、わたしと別れた。さよならと手を振りながらわたしに投げかけた明るい表情や、通路を歩く足取りには、先ほど感じた「不機嫌そう」な感情は、どこも感じなかった。自分の思い過ごしだと言い聞かせて、わたしはレポート作成するために大学の図書館へと向かう。
A棟を出てふいに空を仰ぐと、綿を敷き詰めたような分厚い雲に、圧迫されるような気持ちになった。晴れていない日、そして夕方になると、気分が少し沈みこんでしまう。カバンの中に手を入れ、頓服が残っているかを確認して、図書館へと続く道を歩いていった。
図書館のロビーを抜け、閲覧台にある新聞を、一通り目を通して顔を上げたら、肩にかけてあったカバンを落としてしまった。
雪人が目の前に立って、同じく新聞を読んでいたのだ。
「……なんで?」智子と映画館に行ったんじゃないの?
ゆっくり雪人は顔を上げて、「なんでって?」と邪悪な笑みを浮かべて聞く。
「あの……、てっきり智子と一緒にいるのかと思って」
雪人は視線を伏せ、新聞のページをめくった。
「俺が、女が好むような恋愛映画を好きで観ると思う?」
「でも……」好きな人が好きな映画なら、一緒に観るもんじゃないんですか、と言いかけてやめた。代わりに、「まさか、智子を置いていったんですか?」と聞いた。
雪人はわたしの瞳をじっと見つめ、新聞を置いてある台に腕をのっけて顔を近づけた。その瞬間、今朝のキスを思い出して、反射的に頬が熱くなってしまう。
「まさか君、智子を『かわいそう』とか思ってる?」
まただ、と思った。この人は質問に答えず、質問を投げる。質問をする側のほうが主導権を持つのだ、といわんばかりに。
「少し……、誰だって好きな人から約束を反故されたら、悲しみます」
「好きな人、ね。んじゃあ、君は俺と交わした約束をふいにされたら、泣いたりするんだ」
クスクス笑いながら言う。この人はどこまで底意地悪いんだろうか。
「先輩とは約束なんか交わしません。信頼できませんから」
「言うね。だったら智子は信頼できているの?」
もちろん、と即答するべきだったけど、さっきの智子の曇った顔が束の間邪魔をする。
「……信頼してますよ。先輩にはわからないかもしれないけど」
「ふうん」と雪人は言って、わたしの落ちているカバンを拾った。――だけでなく、カバンの中を漁り、スマホを取り上げた。
「ちょ! 人のカバンの中を探るなんて……」
「朝は抵抗しなかったのに? キスよりカバンの中のほうが耐え難いの?」
怒りと恥辱で頭の中で悲鳴を上げた。ニヤっと雪人は笑い、スマホの画面をいとも簡単に開いた。「パスコートが誕生日だなんてさ。SNSのパスワードもまさか同じ?」と雪人はわざとらしく驚いた表情をして、証明するようにスマホの画面を見せた。わたしは手を伸ばして必死にスマホを奪い返そうとしたけど、雪人の腕の長さには敵わなかった……。でも、どうして誕生日を知っているの?
「どうして誕生日を知っていると思う? ――まあ、考えなくともわかると思うけど。君と共通する知人って一人しかいないし」
智子……、と呆れた。でも、なんで智子がわたしの誕生日なんかを、雪人に話すのだろう? わからず答えを求めるように、雪人の顔を見つめた。すると、雪人がわたしの額をぐりぐりと指先で押して。
「答えを求めるんじゃなく、自分の頭で考えたら?」
とスマホを返した。カチン、と来たけど、雪人がわたしの考えを簡単に拾えてしまうことに、またどきどきしてしまう。
いや、どきどきしてはいけない。
慌ててスマホを操作し確認しながら、「先輩、どっかいじりました?」と念のため聞いた。雪人はチェスターコートのポケットから、自分のスマホを取り出し、操作した。すると――わたしのスマホが振動して「雪人先輩」という名前が表示された。
「……勝手に人のスマホに登録して……」
雪人は電話を切り、「そういうときは、ありがとうございます、って言うんじゃないの?」と笑った。
一瞬、殺意を覚えた。
震える唇で、「……消します」と厳かに宣言した。
雪人はまたわたしのスマホを取り上げ、「消したらどうなると思う?」とわたしを見下ろして、冷たい目線で圧迫した。
「……脅してるんですか?」
「脅すなんて不穏だな。悪くはないと思うけど? 君もまた――今朝みたいにパニックになったとき、連絡する相手ができる」
「連絡なんてしません。……だいたいパニックになったときって、何も考えられないのをわかってないでしょ」
最後のほうは、雪人に聞こえないくらいの小さな声で呟いた。そして心の中で、あなたには一生わからない、と訴えていた。つらくて苦しくて、ぜいぜい言う声が頭の中で響き、涙を流しながら薬が効くのを待ち続ける夜があるということを。
「――ごめん」
耳に触れた雪人の一言が、いつになく優しくて、わたしはびっくりして、雪人の顔をじっと見た。そしてスマホを渡され、「でも、電話を鳴らしてくれるだけでいいから。そしたら俺はわかるから」と言って、わたしの頭に手を触れ、わさわさと軽く撫でられた。笑顔のあと見せた雪人の暗い横顔に、わたしはまた、心の柔らかいところを、きゅっと掴まれて苦しくなった。
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