私の子供

 弥生は私の子供だった。それもほんの数ヶ月の間だ。弥生は表情が乏しく、いつもぬいぐるみのボタンを触っていて、私になつくこともなかった。私は正直、弥生のことを煩わしい、と思った。でも、夏美の子供だったから、仕方なく父親の役目を引き受けた。それも、演じることすら覚束なく、夏美の前でだけ弥生を触れるような素振りだけみせた。
 夏美が弥生を連れてきたのは、雨が降りしきる夕方のこと。夏美は、別れちゃった、と冗談めかして離婚届けを役所に出したことを告げた。私は甘い予感とともに困惑した。それで、といいかけてそれで本当に良かったのか、という言葉を呑み込んだ。夏美は弥生を玄関に立たせたままで、ソファに座っている私に抱きついた。私は夏美の腕の上から弥生をうかがった。弥生は、どこか一点を凝視して、唇が少しだけ開いていた。頭の悪そうな子供だ、と私は思った。
「弥生、自己紹介をしてごらん」
 夏美がそういうと、弥生は宙に浮いた視線を私の方に向けて、やよい、ななさい、と機械的な口調でいった。夏美は自分が教えた通りに弥生がそうしたので、弥生の頬を薄い手のひらで撫でた。
 弥生は字がわかるのか。
 そんなことを質問した私を、でも夏美は咎めなかった。ひらがなはね、少し、でも絵は好きみたい。夏美は私の言葉に少しの悪意があることを、しらないような顔をしていった。絵が、好きなのか。そう、絵本はずっと見てるの。ずっと、と夏美は強調していった。弥生はぬいぐるみの洋服に縫いつけられているボタンを指先で弄ぶように触りながら、ベランダ窓の、雨滴のあとを眺めているようだった。
 私は夏美と弥生と色んな場所にいった。
 けど、弥生とふたりきりではどこにもいかなかった。夏美が仕事で部屋をでて、弥生とふたりきりになってしまったとき、私は仕事をしながら煙草を始終吸っていた。弥生は瞼を伏せて、やはりぬいぐるみのボタンを触っているようだった。そして、そのうち眠りについた。
 おとうさん。
「そう。このひとがお父さんよ」
 私が父親の役目を引き受けると、口にだして夏美に約束したとき、夏美は喜んだ。弥生のほうはどうかわからない。弥生は平たい表情で夏美のことばをなぞるように、おとうさん、と繰り返した。
 今なら、母親の気まぐれな態度で不安な気持ちになってしまうのを必死に抑えこんで感情を失ってしまった、それが軽い障害のようなものになってしまった、だとか弥生を分析することもできる。でも、あの時期に私はそうしなかった。そういう可哀想な気持ちに誘導される思考を持つことが、弥生と夏美の病に巻き込まれているようで億劫だった。私は、子供を、ひとを、愛することがうまくできなかった。
 でも、揺れたときがある。
 いつもみたいに、私はPCに向かい仕事をしていると、ソファに寄りかかって、うとうとしている弥生が、呻くような声をあげた。それが、おとうさん、と私の耳にはそう聞こえた。
 なに、と私は弥生の方に振り向いた。弥生は私の青いシャツを握りしめていて、そのボタンを触っていた。弥生は、私が振り向くとぼうっとした顔で私を見つめていた。その時、私は弥生が呼んだのは私じゃなかったのかもしれない、と思った。咳払いをして、煙草を吸おうと机の上に置いたハイライトから一本抜き取ったと同時に、弥生はふにゃっと笑った。おとうさん、と今度は新たに確信を得たように、弥生はいった。
 私は、初めて弥生の父のような気がした。
 それから私は夏美とつまらないことで諍いをした。あなたは、愛してくれない、と夏美はみっともない顔をして何度も何度も繰り返した。私は頬を叩かれる覚悟をしたけど、夏美は振り上げた手をおろして弥生を連れて部屋を出て行った。
 母親に引っ張られる、弥生はいつものようにどこかうわの空で、でも一瞬だけ顔を私の方に向けた。少し開いた唇が何かをいおうとしていたけど、私はそれを読みとることができず、すぐに靴を履かないことで腕を叩かれた弥生を、少しだけ可哀想な気持ちになって、見送った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?