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【連載小説】十三月の祈り ep.2

 吸い込まれるようにして落ちていく。現実の騒々しい景色の中に。
 束の間の想像が終わると、目の前にマスクをしてコートを羽織った人間たちが並んでいるのが見えた。電車が遅延していることを告げるアナウンスの声が響き渡ると、ホームに残された人々は一様に眉間をしかめながら、苛立ちと落胆を露わにする。周囲の嫌悪から背けるように、わたしは構内の屋根と屋根の間に挟まれた空を仰ぐ。眩しいほど、十二月の空は白く反射していた。試しに息を吐いてみても、それはまるで存在していないかのように、外気に色もなく混ざる。雨も雪も落とさない空には、烏ではなく鳩の群れが、薄く伸びた雲の上を横断していく。
 この世界には、もうあなたがいない。その事実を告げられたのが去年の今頃。あれから一年が過ぎようとしても――いや、それから何年経とうとも――わたしは、自分の心の中にあなたを描くことをやめない。
 それは祈りみたいなものだから。
 ふいに背中を押される。振り向くと白髪交じりの髪をきれいに整えた中年男性が、ホームから出ようと、わたしとその後ろの人の間に鞄をねじりこませ、横切ろうとしていた。その様子を眺めていたわたしは男性と目が合い、睨まれた。すみません、とマスクを通したせいでこもった声で謝り、男性はわたしを無視して階段のほうへ突き進んだ。
 身体がしびれていく感覚を感じながら、ゆっくりと顔を向かいのホームに戻す。背後で誰かが誰かに電話をする声が聞こえる。――死ぬんなら、時と場所を選べって話だよな。最悪過ぎるんだけど。
 重なる舌打ちの音、煩わしそうなため息の気配。ホームの騒音に紛れている、それらのひとつひとつを拾いあげそうになる。
 頭の中で虫が湧いて一斉に声を鳴らしているみたいに、不快なノイズがやまない。耐えられず、わたしはワイヤレスのイアフォンを耳に差し込み、iPhoneで外の音が薄れるほどの陽気な曲を検索する。どれでもいい。ここにいる人間の気配を忘れられるものなら。
 やがて鮮やかに弾むような音が流れ、人々の嫌悪で充満した世界からわたしは少し遠ざかる。わたしは瞼を閉じ、端末の脇を指でひとつまたひとつと押していき、ボリュームをさらに上げる。彼らから、さらに遠くに行こうとして。
 外に出ると、ときどき恐怖が襲う。見知らぬ誰かの中に紛れることは、怖くない。見知らぬ誰かの顔が感情によって動くとき。たとえ、それが悪意によるものではなくとも、それまで記号として認識していた通りすがりの人にも、心があるのだと意識したとき。それはまるで美術館の中を何も考えず歩いていくと、額縁に収まった鎖に絡まれている少女の絵が目に留まり、彼女の光りを放つ瞳を見て、自分と同じ意思を持った人間だと気づかされる、あるいはそう錯覚してしまうような感覚だ。そして、わたしは彼女によって検閲され、裁かれる。――わたしたちを眺めているのは楽しい? そうやって、傍観者でいるのは気分が楽でしょう? あなたは「知らない」のではなく、「知ろうとしない」の。絵の中に踏み込む想像力を持たないのは、自分を守ることに徹しているからよ。
 そして、わたしはその絵に描かれた少女が次に示すだろうことに怯える。――わたしの話していることが違うと、証明できる? わたしをここから救いだすことができる?
 あなたも、そのメッセージに怯えていたのでしょう? だけどあなたは自分自身の存在が偽りではないことを証明するかのように、彼らの望みに応えようとしていた。でも――そんなことは続かない。たとえ、誰かの希望に応え続けようとしても、あなたはあなた自身から逃れられない。
 瞼を閉じても、外の光りの存在を感じる不完全な暗闇のなかで、わたしは強い風が通る兆しを察知する。目を開き、片方のイヤホンを外すと、シルバーの列車の顔がレールの奥から近づいてくるのが見えた。わたしは音楽を流すアプリを閉じて、コートのポケットにiPhoneをしまう。それから数秒後に列車がホームに滑り込み、その勢いで生まれた大きな荒い風が、わたしの前髪を持ち上げ乱した。列車から吐き出されていく無表情の人々の群れを見送り列車に入るとき、誰かに背を押されているような気がした。まるで自分の意志で、動き出す日常に乗り込んだのではなく、惰性の手がわたしの背を押しているみたいに。あなたが「自分を克服」したあの日から、過ぎていく日常がわたしにとって信じられなかった。永遠に降り注ぐと思った雪はいずれ止み、奇跡のように晴れ渡ったし、公園に行けば子どもたちの笑い声で溢れていた。朝の食事を抜いても、やがて空腹を感じた。あなたがいなくなった日でさえ、何かを口にしている自分を恥ずかしく思った。夕方にはいつも通りチャイムが響き渡り、夜が近づくと隣の部屋から夕餉の匂いがしてきた。決まった時刻に通知が来るニュースは、政治と芸能界の話ばかりだった。あなたが亡くなったのに、どのニュースサイトを見てもあなたの存在は見つけられなかった。朝起きると元通りになる気がした。でも、あなたが亡くなったことを知らせたメールは残っていた。それでも、わたしは週五日会社に行き、あなたのことを知らない人と仕事をした。でも仕事をしながら、わたしはあなたのことを忘れる瞬間など、一切なかった。時間が、周りが、静かな河みたいに流れていっても、その河の中央に位置している誰も知らない名前の石みたいに、わたしの心はひとところに留まり続けた。
 
 まるでわたしの心は、日常の時間の流れに抗っているみたいだった。

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