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パッションではなくミッション。

春になれば(半)ひとり暮らしを始めて、1年が経つ。未だにベランダの床には直径15㎝ほどの穴が空いたままだし、寝泊まりはもっぱら実家だ。仕事用のアトリエといったら聞こえがいいけども、(半)ひとり暮らしから、(完)ひとり暮らしに変わるまでまだ時間がかかりそう。

仕事のとき、ひとりで執筆に取り掛かれる空間ができたのは良かった。でも、その一方で完全に「ひとり」の状態だと、仕事のモチベーションをどう維持したらいいのか、どれくらいの頻度で小休憩を挟んだら効率が上がるのか、に悩んだりした。福祉でお世話になっている支援者さんにそのことを相談すると、「そもそも仕事にモチベーションっているんですか?」みたいなことを返された。支援者さんは、「仕事だからやる」というスタンスでいるみたいだった。つまり、「情熱に燃えて!」とか「利用者さんに応えるために!」ということじゃなく、仕事を日々のルーティンワークとして捉えて、淡々と進めていくのだ。

モチベーション問題。これはとても微妙な問題だ。確かに感情や気分任せに仕事をしていくと、障害や問題にぶつかったときにどん詰まりになってしまう。モチベーションがそのとき、一気にぐんと落ちるのだ。生産性もそれに比例してダダ下がりする。しかし、ある程度のモチベーションがないと、日々デスクに向かうということさえ、億劫になる。注意力は散漫し思考力も落ち、嫌がる脳に鞭を打ちながら、チカチカ光るパソコン画面を眺めながら、不毛にも頻繁にブラウザを開き閉じを繰り返す。

仕事の生産性を高めるためのメソッド的なものは、ネットにたくさん書かれてあるけれど、それよりも大事なことは「ミッション(使命)」なのではないのか? と思う。パッション(情熱)ではなく。先ほどの支援者さんが言った「仕事だからやる」というのも、広く言えばその使命(つまり仕事の役割)が自分に来たからやる、ということなのではないか? と。

大学時代、就職難にぶち当たりの世代だったわたしは、大学で行われたキャリアセミナーみたいなものに参加し、1本の映像を流された。それは、100社か200社くらいの会社を受け、全滅した女子大生がようやく内定を勝ちとるという(実)話だった。その最後に拾ってくれた面接官が彼女を採用した理由が、100社か200社の会社を受けた根性を買ったからだという。そういうストーリーを流されて、就職をするとはそういう途方もない道のりを行くことなのだとそのとき知った。そして、その時代の新聞に書かれてあったことは、「仕事においてその人じゃなきゃできないというものはないのです」ということだった。

そういうなかで、ミッション(使命)を持ち、仕事を進めていくということに何の意味があるのか。入れ替え可能な世界に使命感を抱くということに。

おそらく、「自分じゃなきゃできない」「自分がいないとこの会社は回らない」という不遜な気持ちではない。与えられた使命を受け入れるということ。役割りを果たすために専心するということ。一見受動的でありながら、そこには何か崇高なものを感じる。

と、なんだか大げさに書いてしまってまとまってないけども、情熱や好きの気持ちよりも「この仕事を果たす」ために専念することの大事さを思った。でも、日々のルーティンワークとして働いている人たちは、使命感にはきっと燃えていない。「ミッション」はもっと心の潜在的な部分に染みわたっているのだと思う。思う、のではなく、わたしが思いたいのだ。



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