「今夜は晴れるでしょう」
もう戻れないよ、と和美はいった。俺は承知していたけど、それでも「戻ってこいよ」とうつむきながら呟いた。和美の部屋の前で、情けなく雨に濡れた姿で。
「戻ってほしかったら、どうしてあのとき……」
和美はその後をいわなかった。いわずに、俺にタオルを差し出した。夜にとつぜん部屋に押しかけたのにもかかわらず、和美は相変わらず優しかった。
俺は、タオルを受け取って握りしめた。背後で玄関のドアが閉まる。俺の前髪から、ぴたぴたと滴が床に落ちていった。
「あのときはあのときだよ。……真に受けんなよ、バカ」
和美にいったサイアクな言葉が頭の中にフッと浮かぶ。本心からいったわけじゃない。和美が「あなたより好きな人ができた」と、居酒屋でわけもわからないことをいってきたからだ。
つきあって、5年。一緒に暮らそう、と話を持ちかけてきたのは和美から。俺は、お前なんかと一緒に生活できねぇよ、なんていいながら、内心うれしかった。隠れて物件を探したり、ふたりで使う家具はどれにしようか、なんてひとりでニヤニヤしながら夢見ていた俺。そんな姿を見た妹にキモイといわれた俺。
その気持ちを「あなたより好きな人ができた」という一言で抹消された。初めのうちはこらえながら、和美の話を聞いていたけど、耐えきれず和美に向かって「まあ俺だってお前を、彼女とは思ってなかったし」「他にもつきあっている女だっているんだ」なんて口からでまかせをいって、女友だちの名をいくつか列挙して、それぞれの(女として)いいところを、具体的に説明してやった。真顔で。
まったくの強がりだったし、大人げないことだったが、和美は真に受けて「……はじめからあなたは裏切ってたんだ」とそこそこショックを受けたらしかった。俺は「してやった」と感じながらも、心うちはどんより重暗かった。(好きな人って誰だ?)と一刻も早く聞きたかったし、でも聞けなかった。プライドというやつのせいで。
それが今じゃ、
「戻ってこいよ……頼むよ」
とプライドもへったくれもなく、懇願している自分がいる。和美は戸惑っている。そりゃそうか。他にも女がいるって信じていて、戻ってこいよ、なんていわれても意味がわからないだろう。
「でも、わたしはもう……あなたのことを好きにはなれない」
わかっている。わかっているけど、戻ってきてほしい。困惑した和美のすっぴんの顔を見て、(すっぴんでもかわいいんだよな……)と思いながら、胸に悲しさが増す。タオルを靴入れの棚に置き、和美に触れようとするも、和美が「いや」と身を交わす。「いや」という響きがほんとに不快そうで、今俺はストーカーみたいに思われているのだろうか、とぼんやり感じつつも、和美の身体のどこかに触れたい。
「あれはぜんぶ……嘘だよ。そんな男に見えるのかよ。5年もつきあってお前、俺のどこを見ていたんだよ」
和美は後ろに退きながら、
「……嘘だとわかっていたよ。そういうところを含めて好きにはなれないの。なんていうか、女々しいよ、あなたは」
と和美は俺に怯みながらも、睨みつけた。
女々しいよ、あなたは。
その言葉はけっこうなパンチ力があった。
「……じゃあ、どうしたらいいんだよ、俺は!」
和美に向かって叫んだ。うつむいたまま。俺はほんとに臆病な男だった。和美の表情が変わる気配がする。うつむいているのに、顔なんて見てないのに、俺にはわかる。だって5年もつきあって、和美を見てきたんだ。他の誰よりも、俺には和美のことがわかるんだ。それなのにーー。
「……あなたは、ほんとに自分のことしか考えない」
重い息とともに吐き出された言葉。和美の本心に、胸がえぐられる。誰の批判よりも、誰の中傷よりも、和美の言葉は痛い。それは、俺のことを理解している女だから。何よりも真理をいっているような気がする。
和美の手が俺の肩に触れる。愛しくて、ではない。いつもよりも硬い和美の手が俺の肩を、強く突き放す。出て行って。出て行って、早く。困るから。
「……いやだ」
「いつまでもいたら、警察呼ぶよ」
やっぱり俺、ストーカー扱いなのかよ。
俺は背を向けて玄関のドアを開けた。涙が出たけど、和美には見せない。見せたくない。最後まで、こんなかっこ悪い男なんて嫌だった。和美が俺の背中を押す。ジャケット越しに、和美の手が震えているのがわかった。鼻もすすっている。なんだ、お前も泣いているのか。ちょっと、心が温もった。そして、とろっと涙が頬を流れた。うれしかった。うれしくて、泣きそうになった。
「……お前は、満足してるの?」
とん、と玄関の外にでた。後ろを向いたまま、和美に聞いた。背後で和美が涙を伏く気配がする。きっと和美の涙もとまらないんだ。俺にはなんでもわかる。
「なにが」
「……俺とこんなふうに……」別れて。
「……しらないよ」
しらない。和美は繰り返しいった。
満足しているなんていえない和美が、愛しかった。
「……帰るわ」
サンキュ。声になったかわからない声で俺はいった。
ドアを閉めた後、和美はまたドアを開けて、俺を呼びとめて、赤い傘を差し出した。
「返さなくていいから。あと、わたしこそ……ありがとう」
瞼を伏せながら、和美はいった。俺は傘をもらって、最後に微笑んだ。きっとうまく笑えてなかったけど。それでも和美の前で、少しでも大丈夫だと伝えたかった。
踊り場からは、横殴りの雨が降っているのが見える。俺が和美に会いに行こうと決めたときは、小ぶりだったから傘を持たなかった。予報でも雨は降らないといっていたし。でも、和美のアパートに向かううちに、気づいた。今日の天気予報は外れたんだと。
階段を降りた後、赤い傘を開いた。
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