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【連載小説】十三月の祈り ep.3

――頭痛がする。3日も続けて雨が降るなんて最悪だ。薬を飲んでも痛みは引かない。頓服も飲んだが、無駄な抵抗だった。Kの声が――執拗に僕を責め続け、頭の痛みを増幅させている。責め続け? いや、Kの言っていることはまごうことなき正論だ。書きだしている今も、ほらKが傍で囁いている。お前は患者だ、と。お前に誰かを救う権利はないのだ、と。今日は、クライアントから電話がかかってきた。睡眠導入剤を増やしてほしい、という用件だった。過去にも薬剤を過剰摂取した患者だったので理由を聞いたが、クライアントは口ごもったあと、衝動的に眠剤を捨てたのだ、と言った。ごまかしている様子がわかったので、僕では判断できないから主治医に直接相談してください、と伝えた。そしたら――クライアントが僕に言った。吉原さんは、わたしのことを疑っているんですか?
 そうじゃない、クリニックの規定なんだと説明しても、クライアントは信じなかった。僕は疑っていると疑われた。クリニックの固定電話の受話器を手に持ちながら、なぜか僕の手のひらには汗が滲みでた。クライアントの問いが、Kの声で頭の中に再生された。――お前は、患者を疑っているのか? お前は、患者の苦しみを理解してくれる唯一の人間じゃないのか? お前も所詮、閉鎖病棟に患者を拘束する医者と変わらないじゃないか。お前は、
 
 ここで、あなたの言葉は途切れた。次に何かを書いた形跡があったが、それはあなたの青いペンによって、強く塗り潰されていた。わたしは、手帳サイズの黒いリングノートを閉じ、部屋の照明の光りを受けて、浮き彫りになった表紙の細かい傷跡を指で触った。一冊のリングノートは、あなたが書き始めてもう五年以上の月日が経っているだろう。わたしの手に渡ってからは、半年の月日が流れていた。
 ――すべてはここにしか、置くことができない。
 最後の余白の残ったページには、そう書かれていた。あなたの苦しみは、このノートに置かれた。あなたが本心で語れる相手は、たった一冊のリングノートだけだった。あなたの「守るべき最愛の人」にも、あなたを育てくれた人にも、あなたと親しくしている友人にも、そして――もちろん、わたしでさえも、あなたは決して自分の中の他者について語りたがらなかった。あなたの中に寄生している他者は、常に批判者であり、あなたが背を向けようとしている現実の暗がりにあなたを誘導し、あなた自身の存在が、誰かにとって誠実ではない、「本物」ではないのだと、執拗に責め続けた。そして、あなたの中の他者は言うのだ。――俺を認めない限り、お前は俺から逃れられない。
 あなたの中の他者は、あなた自身だった。あなたが排斥しようとしている悪の存在、裏側のほうの真実、そのすべてを語るのがあなたの中の他者だった。
 
 その他者を消すために――あなたはこのことを「自己の克服」と書いていた――あなたは、自らの意志で命を絶った。最後にわたしと会った日から3日後、その3日後の夜。無慈悲なくらい冷たい雨が、わたしとあなたの住む街には降り注いでいた。最後まであなたは、頭痛に苦しんでいた? 他者の声が聞こえていた? それさえも今では聞くことができない。だから、わたしは心の中であなたに問いかけていた。問いかけながら、あなたが彷徨っていた場所から抜け出せる道を導きだしたかった。どこでもない空間の、どこにもいないあなたという存在に対して。
 それは不毛だよ。
 いつだったか、夢のなかであなたの像を結びつけられたとき、あなたにそう言われた。わたしは弱く笑いながら、それでもいいのだ、とあなたに伝えた。それがわたしのあなたに対する祈りのようなものだから、と。誰かのために捧げる祈りは、それ自体が意味を成すものだから、と。

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