【連載小説】十三月の祈り ep.5
あなたの顔を真近で見たとき、視線に耐えられずわたしは目を一瞬逸らして、サンダルから出た自分のいびつな爪の形を見つめた。そして無造作に服を選んで着た自分の姿を恥ずかしく思った。あなたは優しいというよりかは弱く響く声で、視線を泳がすわたしに向かって挨拶をした。
――初めまして……と言ったほうがいいのかな。吉原です。ココアサイトに所属する相談員の。待たせてごめんね。
わたしはゆっくりと目を上げていった。あなたが着た青いコットンシャツの胸元には、汗で滲んで紺色の染みが広がっていた。几帳面な性格を語るかのように、蒸すような暑い日でも、あなたはすべてのボタンを締めていた。白く伸びた首筋には発疹のあとのようなものがあり、はっきりと輪郭を持つ顎先からは次から次へと汗の滴が流れ落ち、それを手の甲で押すようにあなたは拭った。小さくて赤い唇に辿り着いたとき、わたしは初めてあなたを男の人だと意識し、そして自分の行動が軽率ではなかったのか、と考えた。でも、あなたを意識してからどうしようもなく巡ってくる身体の熱は、そして胸の動悸は、苦しいだけのものではなかった。
あなたの瞳をもう一度見ると、わたしは自然と微笑むことができた。自然と、と自分でもそう実感できたのは、わたしが微笑んだあと、あなたが安心したように表情を少し崩したから。そのとき初めて、人と人の意思が通い合えることを理解できたように思えた。
***
高校を卒業して、わたしは大学に行かずに働くことを選んだ。それは、騙し続けた母をさらに裏切ることになることだとわかっていた。でも、母に大学受験をしないことを伝えると、わかった、明日香はもう十分勉強してきたものね。と理解を示すようなことを言われた。そのとき、わたしは母でさえも気を遣わせる子どもなのだと気づき、今まで騙してきたのはわたしだけでなかったことに傷つき、そして傷つきながらもどこか安心していた。ありがとう、という言葉が自然と口をついた。母は驚いて表情を止めた。余計なことを言った、とあとから羞恥が湧き、大学はわたしには合わないと思うから、と言い訳をするようにぼそぼそと言った。それは正直な気持ちだった。
初めは市役所の臨時職員として働き、そのあと就職活動をして小さな老人ホームの事務員として採用された。その仕事は今でも続いている。契約社員という身分ではあるけれど、給与は正社員とさほど変わらず、二年も働けばひとりで暮らすための充分な資金がつくれた。それで、二年後に親元を離れて、1Kのアパートを借りた。二階の部屋なので、ベランダ窓から見える景色が気に入った。アパートの隣は古い家屋の一軒家で、梅や百日紅、マンサクなどの樹木が植わっていた。春や夏は上から色づく花々を見おろせたし、秋にはマンサクの葉が赤く染まり、冬になると透度の高い空の下に樹木の枝が、繊細な切り絵のような模様を作るのを眺めていた。
そして、そんなささいな喜びを交えたメールを、あなたに宛ててiPhoneで打ち込んだ。M市に引っ越しました。ようやくひとり暮らしを始めます。部屋は狭いですが、南向きなので日当たりがよく、冬でもそんなに寒くはないそうです。今は春なので、ベランダ窓から、梅の花が咲いているのが見えます。桜より、わたしは梅の花のほうが好きです。桜より先に春の訪れを知らせてくれるから。それに、梅の花のほうが謙虚に咲くから、なんとなく親近感が湧くのです。――そんなたわいもない言葉を並べ、返信を強要させてしまうみたいで嫌だから最後は疑問系にはせず、梅の花の写真だけを添付して送信した。サイトを利用しなくなったあとでも、あなたとのやりとりは続いていた。あのとき出会ったのも規定違反ではあったけど、相談者との面会や、個人的なやりとりは黙認されていた。あなたは、常に正しさを優先していたけど、あなたの正しさとは誰かに対する優しさだった。だから、あなたはわたしだけでなく、ほかの相談者とも関係を継続していた。少し想像すれば、それはわかった。そのときのわたしでさえ。
でも、もちろん想定できないこともある。たとえば、わたしが住んでいる街に、あなたがすでに住んで彼女と暮らしていることを。
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