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溺れていたい

溺れていたい、と直樹君は言った。京子さんと一緒なら、溺死しても構わないとも。

 何寝ぼけたこと言ってんだか。わたしは呆れながらそう返した。けれども、内心まんざらでもなかった。

 直樹君とは一日おきに会っている。平日の昼間にベーグルの美味しいカフェで軽く食事をして、安いホテルで抱き合う。直樹君の若い身体は存分に水を含んでいて、瓜の匂いがする。触り飽きることがない。会う度に直樹君の身体は成長しているようで、新鮮である。

 夫と結婚する前は、夫が最後の男だと思った。

 だけど、結婚しても人は恋をするもんだと直樹君に出会って知ってしまった。

 直樹君とは大学で知り合った。わたしの夫が大学の準教授で、直樹君はそこに通っている学生だった。

 何を読んでいるのですか?

 大学のカフェテリアで、最初にかけた直樹君の言葉は、実はわたしの返答など関心がなかった。周りの学生より年を重ねた女に、直樹君は興味があっただけだった。

 「あの本、まだ持っている?」

 そうわたしは直樹君に訊ねる。直樹君はベッドの上で体育座りしながら、わたしの髪を触って、

「もちろん、持っているよ」

と甘ったれた声を出す。

 カフェテリアで読んでいた本は直樹君に貸してあげた。彼が仏文学科の学生だと後で知って、わたしは読むべきだと思った。ラディゲの「肉体の悪魔」。だけど、直樹君はまだ読んでいないらしく、返してもらっていない。

 わたしの鎖骨に唇を寄せて、肩に額をこすりつけるようにあてる。直樹君のワックスをつけた髪が、肌をちくちくと刺す。

 「なんで、京子さんは戻る家があるんだろう」

 夕方が近くなると、直樹君は途端に悲観する。

 「俺はずっと、京子さんと溺れていたいのに」

 しくしくと、わざとらしく直樹君は泣く。男らしくありなさい、といつもわたしは言うのだが、それはなんだか、恋人として、というよりも母親として、という響きに聞こえてしまう。

 直樹君がわたしに期待しているものはなんだろう。

 初めて一緒に抱き合ったとき、直樹君はこう言った。

「なんだか京子さんって、俺のお姉ちゃんに似ているなって初め思ったんです」

お姉ちゃんみたいな人と抱き合って、どういう心境なのだろうとその時は思った。そして会う機会を重ねていく内に、

「実はお姉ちゃんのことがずっと好きで」

とカミングアウトをしだして、

「ずっと結婚したいと思っていて」

報われない思いをしていたのだと述懐し、

「結局は姉ちゃん、元暴走族と、できちゃった結婚しちゃったんですけどね」

と、涙ながらに語った。

 直樹君の気持ちを推し量ることはできないので、わたしは何も言えず、ただ直樹君のまだいとけなさを残す横顔を見守るように眺めていた。冬の終わりのバス停だった。

 もしもだが、直樹君がその元暴走族とできちゃった結婚をしちゃったお姉さんの面影を、わたしに見出してしまったのなら、正直言ってちょっと気持ちが悪い。それで、帰るのをぐずっている彼に聞いた。 

「わたしをお姉さんだとか思ってる?」

「え?何いきなり。京子さんは京子さんだよ」

「そっかそっか。それならいい」

どうやら、わたしの深読みだったみたいだ。直樹君は上半身裸のまま、わたしの背に抱きついた。

「一緒にいくところまで、いってしまおう」

「いくところまでって、どこまでよ」

「地の底、宇宙の彼方、世界の深淵までずーっと」

はいはい、と言ってわたしは直樹君の両腕を払う。だけど内心、悪くはないかな、なんて思ったりもする。

 外を出ると、桃色の空が広がっていた。日はだいぶ長くなっていた。直樹君とわたしは駅が近くなるにつれ、よそよそしくなる。ホテルの中では、素っ裸でもぜんぜん恥ずかしくも、後ろめたさも、感じなかったのに外気に触れると夢が溶けてしまったように現実が現れだす。

「いつまでこんなこと続けてられるのかな」

不意に、口についた言葉を後悔してももう遅かった。

「こんなことって」

直樹君が憤慨するのも無理はない。

「今のは失言だった」

と言っても取り消せない。

「京子さん」

と直樹君はわたしの名前を呼んだ。でもそれ以上は何も言わなかった。

 電車がホームに到着する前に、夫からメールがあった。今日は夕飯はいらない。その一行しかない、素っ気ないメール。これが初めてではなく、もうかれこれ数ヶ月、夫はこんな態度なのだ。

 わたしは、どこかで夫も浮気しているのではないかと思った。していてほしいと、心のどこかで望んでしまっていた。もう終わりにしたかった。

 直樹君が、わたしの右手の先をつつく。

 だけど、わたしはここで直樹君の手を握ったりなんかはできない。そうしたら、ほんとうに「終わり」になってしまうような気がして、ほんとうに「溺れて」しまうような気がして。

 ホームに電車が滑り込んで、わたしは車両に乗った。

 「京子さん、俺はずっと待っているからね」

 扉が閉まる前に、直樹君がそう言った。

 待っているのは、メールでも電話でも次の再会でもない。

 若い男の子に気をとられるなんて、年甲斐もない。そう思ったけれど、わたしの心は次の駅で降りることに決めていた。溺れてしまおう。そう思っていた。

 

 

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