【掌編小説】彼のおうち
それってビョーキじゃないの?
有ちゃんにいわれて、とっさに返す言葉がみつからなかった。あるいは、私も心のどっかでそう思っていたのかもしれない。啓くんって、ビョーキかもって。
「ちがうと思う」
はっきりと断言できず、遅れてそう返した。有ちゃんは、私の顔をみず、スマホをいじりながら、「でも、正常じゃないよねー」と眉間にしわを寄せた。
チャイムが鳴って、私たちはそれぞれ席に着く。先生がドアを開けて、教室内を見渡し、ひとつだけ空いている席のことには言及せず、「さー、寝てるやつ起きろー」と、出席簿をひらき教壇の前に立った。
窓際の席の私は、先生が点呼をとっている間、教室の窓から外を眺めていた。啓くん、ほんとにビョーキなのかな。そうやって疑う自分をすぐに、いけない、と咎めた。
啓くんが、穴を掘り出したのは先月の頭。
先生に叱られたのがきっかけ。どういう啓くんの失態で、先生が怒ったのか、私にはわからない。啓くんがいうに、「理不尽」なことで「一方的」に責められたのらしい。当の先生に聞いたら、「とんでもない」と首を振った。俺は叱ったんじゃなく、「諭した」んだという。
そんなふうに抗議しても、ふたりともどういう事情があったのかは話さないので、私は真実がなんなのか、わからないままでいる。
そしてそれから啓くんは、穴を掘って自分の「おうち」にこもりだしたというわけだ。
学内の売店で焼きそばパンと、コーヒー牛乳を買って、私は啓くんの「おうち」がある校舎の裏庭に回った。
百日紅が啓くんのおうちの傍に植わってあって、もうそろそろ花が咲いてくる頃だ。啓くんのおうちである穴は、もうすでに啓くんの背丈よりも深く掘られていて、穴を覗きこまないと、啓くんの姿がみえない。ジジジ、という音が穴のなかから聞こえてきた。穴を覗くと、啓くんが小型ラジオを回していた。
「啓くん、ごはん持ってきたよー」
ラジオから手を離して、啓くんは顔をあげる。
「サンキュー、いくらだった?」
考えなしに領収書を落としたら、ひらひらと翻って、啓くんはうまくキャッチできなかった。
「じゃ、次はパンとコーヒーおろすね」
私は近くにあったビニル紐で袋のとって部分に絡ませて縛り、それをゆっくりとおろした。啓くんは、長い前髪を手で払って、それを受け取ると、これだけ? と少し口を尖らせた。
「コロッケパンも買おうと思ったんだけど、なかった」
ま、千絵のわりには上出来かな、と啓くんはつぶやいていた。
私は穴の入り口に座り、そこに足を伸ばしいれた。
「啓くん、どこまで掘るの?」
パンを口に含みながら、啓くんは答えた。
「ブラジルに届くまで」
ふーん、と私はいって、ブラジルってどこ? と聞いた。日本の裏側がブラジルだよ、と啓くんはてきとうにいった。
ぶらぶら足を揺らしている私に、啓くんは「千絵もこっちにくる?」と誘ってきた。私は少し考えて、首をふり。「だって、ふたりとも穴に落ちちゃったら、誰も助けてくれないよ」といった。
それもそうか、と啓くんは納得して、でもどこか寂しそうに顔を俯けた。啓くん。と私はいった。
「どうして、こんなところにいるの?」
その質問に対してもまた啓くんは、「ブラジルに行きたいから」とはぐらかした。
チャイムが鳴って、私は立ち上がって「バイバイ」とおうちにいる啓くんに手をふった。啓くんも手をふって、「千絵のパンツみえそう」と私をからかう。怒った私は足を蹴って、土をかけてやった。
後ろを向いたとたん啓くんが「千絵、」と私を呼んだ。私はスカートを抑えながら、穴を覗きこむ。
「俺きっとさ。いずれ、千絵にひきあげられると思うから安心してここにいられるんだろうね」
そういって、穴にかけられた脱出用の縄をぐっと引っ張った。縄がずるずると落ちていくので、私は「なにしてんの」と縄を引っ張った。「ほら」と啓くんがにっと笑う。
「もし私がいなくなったら、啓くんどうすんの?」
意地悪になって聞いてみた。
「そしたら俺、一生穴のなかで過ごすよ」
そういって、啓くんは手を離した。綱引きみたいに私は後ろに、どん、と尻餅をついた。
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