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義務感を伴う創作

前回書いた記事の、外付け機器問題がようやく解決した。家族総動員で検証してみたところ、問題は機器が充電されていなかったことが原因。なんという盲点……こういうのを使ったことがない、とはいえ、自分の頭の悪さに脱力した。

ということで、無事にポメラのデータをパソコンに移動することができるようになった。めでたし、めでたし。

昨夜、Twitterでコロナやオリンピック関連の情報を調べていた。別にわたしは政治に詳しくなく、確たる主張もない。ないからこそ、「実際どうなの?」と少し真相が知りたかったのだ。だけど、Twitterでスクロールしたり、リンク元を覗いてみたりすると、どんどん頭が重くなり、気持ちが不安定になった。結局、真相などわかるわけもなく、脳のエネルギーを消費するだけだった。

少し脳の情報をどこかに置いておこうと、iPhoneに思いつくままに書き出してみた。別にコロナやオリンピックの話を書いていたわけではなく、そのときの気持ちのままに書いただけ。すると、すっきり! とまではいかないものの、心が落ち着いていく感覚がした。とくによかったのは、誰にも見られない日記アプリに書いていたこと。オープンな場所で書く文章は、どうしても「こんなこと書いて嫌な思いをされないか……?」「自分の自分語りは邪魔にはならないか……?」などと自意識が邪魔をしてしまい、とてもじゃないが自由に書けない。(昔は自由気ままに書いていたけど

誰にも見せない日記、あるいは雑記は、心のデトックスになるんだな、という実感を持った。そうなら、誰にも見せない小説も心のデトックスになるのだろうか。

今年の春頃、「自分のための小説」を書いてみよう! と思いつき、小説をちまちまと書いていたことがある。あるクリエイターさんの「自分のための小説を書いている」という記事を見たのがきっかけだったと思う。その記事(あるいは呟き?)を見て、そういえばわたしの創作は、半分「義務感」に縛られているなあ、と思ったのだ。

公募のための小説オンリーだと、どうしても制約がある。わたしは賞の傾向、特色などはあまり考慮せずに書き進める人なのだが、賞に出すからにはそれなりにまとまっていなければならない、と考えている。というのも、わたしの小説は長くなればなるほど意味がわからなくなる(脱線したり、冗長になったり)傾向にあるからだ。そうなれば、だいたいの骨格を決め、登場人物・設定を決め……など、いろいろ固めてから書かなくてはいけない。そうして固めて、なるだけ脱線しないよう、主題に合った着地点に降りられるよう、半分意識的に操縦しながら書いていく。すると、どうしても創作においては完全に自由になれず、「義務感」というベルトをきゅっきゅっと締めながら、バイキングの食事を慎重にとっている感じがする。

それで話を戻すと、「自分のための小説」を書いていた。春頃までは。内容は、KPOP系統のアイドルになった幼馴染と平凡な女子大生になった主人公のお話。子ども時代には仲良しだったけど、どんどん道が分かれていく、でもお互いにこの関係を大切にしたい、繋げていたいと思っていて……みたいな話にしようと思って書いていた。始めは楽しく書いていたけども、だんだん先が見えなくなり、そして公募の小説の締め切りが危ういことに気づきだし(まだ脱稿できていない)、今その小説を書くのを止めている。

「自分のための小説」を書くことは、実際楽しかったし、効果はあった。でも、わたしはそれより前に「やるべきこと」を整理する必要があった。今書いている公募のための(半分義務感を伴う)小説が終わったら、また自分のための小説に取り掛かりたい。そして、時間の使い方を見直したい……と思う。

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