見出し画像

技術進歩と俳優・制作者の権利意識の変遷

映画の黎明期と俳優・制作者の権利意識の芽生え

19世紀末から20世紀初頭にかけて映画が誕生した当初、俳優や制作者の権利保護はほとんど考慮されていませんでした。サイレント映画時代、映画は新奇な娯楽と見なされ、出演者の名前すら画面に表示されないことも珍しくありませんでした。これは、俳優が人気を得て高額な報酬を要求することを防ぐためでした。当時の映画スタジオは強い支配力を持ち、俳優は単なる「労働者」として扱われ、作品に対する継続的な権利や利益配分の仕組みは存在していませんでした。

しかし、映画の人気が高まると一部の俳優や監督は自らの地位向上と権利確保を模索し始めます。例えば1919年、チャーリー・チャップリンやメアリー・ピックフォード、ダグラス・フェアバンクス、D・W・グリフィスといった当時の大スターたちは、自分たちで映画制作と配給の会社「ユナイテッド・アーティスツ(UA)」を設立しました。彼らは「作品の制作と配給において完全な自由(完全なコントロール)」を求め、初めて芸術家自身が経営権を握る大手映画会社を作ったのです。これは俳優・制作者が自身の創作物に対する芸術的コントロールや収益の分配を確保しようとした初期の試みでした。

一方、日本においても映画は明治末期から大正時代にかけて興行が始まりましたが、制作者や俳優の権利意識が明確に表面化するのはもう少し後のことになります。当初の日本映画産業は、活動写真弁士(映画の説明をする語り手)の存在など独自の文化もあり、俳優は専属契約という形で映画会社に所属し、会社から給与を受け取る形態が一般的でした。黎明期には、作品の著作権や出演者の権利保護についての法制度も未整備で、出演料以外の報酬や肖像の扱いなどは各社の裁量に任されていたと考えられます。つまり、映画の黎明期には技術の革新が続く一方で、俳優・制作者個人の権利保護意識はまだ芽生え始めた段階に過ぎず、スタジオ(制作会社)の力が圧倒的に強い時代だったのです。

スタジオ・システムの確立と契約構造の固定化

1920~40年代にかけて、アメリカでは「スタジオ・システム」と呼ばれる大手映画会社主導の制作体制が確立しました。ハリウッドの大手スタジオ(例えばMGM、パラマウント、ワーナーなど)は、有望な俳優と長期の専属契約を結び、自社の作品に継続的に出演させました。この時代、俳優はスタジオと7年契約(ただしスタジオ側が毎年更新のオプションを持つ)を結ぶのが典型で、スタジオが俳優の出演作品やイメージ戦略(スターの売り出し方)を徹底的に管理する「スターシステム」が広まりました。俳優は一定の給与を受け取る代わりに、出演する作品やスケジュールの決定権をスタジオに握られ、また出演した映画がいくらヒットしても追加報酬は得られないのが普通でした。このように契約構造が固定化される中、俳優の創作上・経済上の権利は厳しく制限されていたのです。

それでも、スター俳優の中には徐々に影響力を高める者も現れました。例えば、オリヴィア・デ・ハビランドは1940年代にワーナー・ブラザース社を相手取って訴訟を起こし、長期専属契約の不当な延長に異議を唱えました(いわゆる「デ・ハビランド法」に発展)。1944年の裁判所の判断により、カリフォルニア州では俳優契約の最長期間は暦で7年とされ、スタジオが契約を無期限に延ばすことを禁じられました。この判例は専属契約の拘束力を弱め、ハリウッドのスタジオ支配に風穴を開けた出来事でした。こうした動きは、俳優が自身のキャリアをコントロールし、公正な待遇を求める権利意識の高まりを示すものと考えられます。

日本でも戦後にかけて、東宝、松竹、日活など大手映画会社が自社俳優を養成し「専属俳優契約」を結ぶ慣行が定着しました。俳優は会社の社員のように扱われ、月給や出演料を受け取る代わりに契約期間中は他社の作品に出られない仕組みです。いわゆる「五社協定」の下、人気俳優が他社に移籍することも制限されるなど、アメリカ同様にスタジオ中心の支配体制が日本でも見られました。この時代の日本では、俳優自身が契約条件について発言力を持つことは少なく、作品の二次利用(テレビ放映や海外配給など)に対する追加の報酬も基本的にはありませんでした(後述するように、映画については当時から「ワンチャンス主義」と呼ばれる一度きりの報酬原則がとられていました)。しかし一方で、戦後の日本映画の全盛期にはスター俳優が観客動員の鍵を握る存在となり、特にトップスターは出演作選びにある程度の発言力を持ち始めるなど、俳優側の影響力も徐々に増していったと考えられます。

テレビ放送とホームビデオの普及による収益構造の変化

ここから先は

11,251字
この記事のみ ¥ 500

この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?