不毛な競争社会から逃れるには?
前にも紹介しましたが、苫野一徳さんのNHK文化センターオンライン教室「教育を哲学する」に参加中ですが、この講座、参加費は安いのですが、博識な苫野さんが本をいっぱい紹介されていて、しかも、お高い本が多いので、結果として高額な講座になっています(笑。
無論、すべて読破できるわけもないんですが、今日はこの一冊を紹介してみたいと思います。
歴史的な視点を持つ、というのは、人が今ある制度や見えない当たり前を払しょくする、もっと言えば、アンラーニングするのに重要なポイントだと思うのですが、この本では、試験というものがいつから学校の当たり前になったのか、ということを紐解いています。
冒頭のはしがきに、著者の斎藤俊彦さんはこう書いています。
私は先年、中国やドイツ、そしてオランダ、デンマーク、ポーランド等に出向き、そこでの学校教育の様子を見聞する機会をもったが、その印象では、小学校から大学に至るまで、日本ほど試験がまるで網の目のように学校教育の中で体系的に張り巡らされている国はない、という感じを受けた。あたかも、試験のために教育が行われているかのようである。
そして、この試験制度が、不毛な競争を創り出している、と言っています。ここでいう不毛な競争というのは、排他的・敵対的な競争のこと。逆に意義ある競争を、相互啓発的・協同的競争と呼んで区別しています。そして、数学者の遠山哲さんの著作から、下記のように記しています。
彼が特に強調するのは、子どもたちが真に学ぶことの意味を見出だす勉強とは、競争にかり立てられての勉強ではないということである。彼は、競争をさせなければ子ども達は勉強しなくなるという「俗説」を、数学教育の豊富な指導事例を通して明確に否定している。本来子どもたちの勉強は、学ぶことの面白さを見出だすことを通してなされるべきであり、それに対し競争中心の勉強は、一方でますます大量の勉強嫌いの子どもたちを生み出し、他方で、点数至上主義の創造性のない「優等生」おw生み出してしまっているというのである。
今、いわゆる先生向けに、コーチングをインストールする連続講座の運営に携わっています。いわゆるコーチングの基礎を3時間の講座で実感として知っていただき、その後、半年くらいかけて実践で落とし込むという内容で、ちなみに3時間講座は先生方が夏休みに入ったので、下記のように行うことになっていますので、もし、御興味ある先生方がいらっしゃったら是非。
ちょっとわかりにくいですが、オンオン会(オンオン会(オンライン授業をオンラインで学ぶ会)主催のイベントの一部として開催され、なんと1,000円で参加できます。ありえんでほんまに。
冒頭の画像は、その告知のために、今の講座に参加されている先生が作ってくれたもの。部分的にしか見えないのはもったいないので、全体を出しときます。
は、いいとして、コーチングを学校などの授業で活用しようというときに、大体の先生が困ることに「評価」があります。コーチングは個々の個性を活かし、強みを伸ばすことを考え、でこぼこがあれば、ぼこをなんとかしようとはしません。この考え方というか思想に、いわゆる日本の教育の「評価」方法は合わない。
で、なんでこの「評価」がなかなか捨てられないかというと、この「試験」というのが良いものである、という思い込みから抜けられないせいではないか、と思うに至ったのです。
この本によると、学校における試験制度ががっちり固められたのは明治時代。国民の能力を押し上げるために、良かれと思ってやったフシがあります。しかし、それは「共創」ではなく「競争」を前提とする社会を生み出してしまった。
普通に考えて、社会なコミュニティでリーダーとなるべき人に必要なことは、人格ではないかと思うでしょう。しかし、この「試験」絶対主義の日本では、まったく人格の良し悪しとは関係ない「試験」で、良い成績を納めたものがエリートとされ、リーダーとなっていきます。その弊害は、コロナやオリンピックの混乱を見ていると誰もが体感されているのではないかと思います。でも、変えられない。
英語ができる人=TOEICの点数が高い人。専門職は試験に合格した人がなる。こういう「常識」が実は、教育制度を変えられなくしているのではないか、アンラーニングすべきなのはここではないか、と思ったのです。
もうひとつ、面白いことに気づいたのは、明治時代の制度の良い点として、飛び級制度があったそうなのです。つまりは、優秀な人材あるいは発達が速い人材は、どんどん飛び級ができたと。そのためには試験というのは良い面もあったのかもしれません。しかし、現在の日本では飛び級はありません。これはいつ変わったんでしょうかね。戦後でしょうか。このあたりはもう少し調べていきたいポイントです。
考えてみれば、日本の人口がどんどん減少していくのも、根底にこの「競争と淘汰」の考え方が根強く教育されているから、なのかもしれません。貧富の差が拡大しているという話も聞きますし、教育費もどんどん高くなっている印象もあります。大学全入時代で、例えば、返済しなくてはならない奨学金を借りて大学を出ても、それが返せるだけの収入を得られるとは限らない社会。それでもみんなが平等で自由だと信じ込まされている社会。
試験の無い社会はどんな社会になるのでしょうか?
人と人が記憶力に頼った知識によって比較されない社会。興味や関心に基づき強みを伸ばし、自分だけの生き方を皆がしている社会。同一メジャーで測られることがないので、それぞれの個性を知ろうと対話が増えている社会。ひとりで生きるのではなく、お互いに支え合う社会。
これって、昨日の記事で、内観が普及した社会を夢見た西田さんが望んでいた社会だなぁ、と思ったのでした。
で、そう思っていたら、また別な角度から今の日本社会の問題を発見する事件があったのですが、これはまた別な機会に。
現場からは以上です。
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