
シン・ドラッカー研究、始めます!
マネジメントの発明者とも言われるP・F・ドラッカー。ビジネスマンであれば、読んだことはないかもしれませんが、知らないという人は居ないでしょう。
岩崎夏海著『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら』(ダイヤモンド社)の刊行は2009年。アニメにもなるほどヒットしました。一方、入山章栄氏による『世界の経営学者はいま何を考えているのか』(2012年)では、帯に「ドラッカーなんて誰も読まない!?」と書いてあって話題になりました。良しにしろ悪しきにしろ、話題として取り上げられやすいドラッカー。肉体を使った労働者の時代から、頭脳を使った知識人の時代へ、という社会の洞察は、まさに製造業便りでITの流れに乗っかれず、どんどん没落していく日本経済を見ていると、ドラッカーの叡智こそ、今の日本に必要なのではないかと思えます。そう、できれば、学校教育レベルに浸透して欲しいと思います。
ただ、話はそう簡単にいきません。学校や教育領域に入るためには、やはり、学問的なバックボーンが必要です。しかし、ドラッカーにはそれがあるのでしょうか?
実はここが長年の間、ドラッカーの叡智を書籍としてではなく、もう少し形式化した教養として広められない理由であったのではないかと思います。実は、それにはドラッカー本人が蒔いた種にこそ、その理由があります。日本では1994年に刊行された『すでに起こった未来』(ダイヤモンド社)の原題は "The Ecological Vision" ですが、この書籍の最終章である「終章」の原題 "Reflections of Social Ecologist" 日本訳「ある社会生態学者の回想」に、こういう記載があります。
「私は、社会生態学を体系であるとした。科学であるとはしなかった。社会生態学を科学として言う者がいるならば、私自身、かなり居心地悪く感じるにちがいない。」(P322)
このドラッカー特有の言い回しが、あたかもドラッカーの理論を科学として捉えることを拒絶するように感じてしまうのが、ドラッカーの蒔いた種だと思います。一方、同じ文章の中で、ドラッカーはこうも言っています。
「社会生態学は、すでに述べたように実学である。」(P323)
「社会生態学は、医学、法学、あるいは自然生態学と同じように実学である。」(P323)
どうもドラッカーは「実学」ということにこだわっていたようなのですが、これの元の単語を見ると、'practice'となっています。つまりは「実践」である、ということです。
これを「臨床」と言う言葉を使って解釈しても良いのかもしれません。哲学者の鷲田清一さんは、「臨床哲学」という言葉を使って、「何かにあてはめる」のではなく、現象学をベースに、ありのままに見つめ、聴くという哲学の在り方を推奨しました。
ドラッカーは「社会生態学」を「体系」であるとしました。しかし「科学」ではなく「実践」であるとしました。この辺の考え方が先駆的過ぎて、ドラッカー自身も自分のアイデアを否定表現「~ではない」と表現することはできても、肯定表現「~である」と、きちんと表現できていないし、当然のように、その意図を理解できる研究者も現れなかったのではないか、と思われます。ドラッカーは最後にこうも言っています。
「最後に、社会生態学は価値から自由ではない。あえてそれを科学と呼ぼうとすれば、それは、二〇〇年も前に死語となった道徳科学である。(中略)社会生態学の体系の基本は、力への信奉ではない。それは責任への信奉、能力にもとづく権威への信奉、そして人間の心への信奉である。」(P323)
ユダヤ人としてナチスの脅威からアメリカに家族で移住したドラッカーにとって、全体主義というのは憎むべき敵であり、人がその罠に陥らないようにと考えられたのがマネジメントという道具でした。
ドラッカーが「200年も前に死語となった」と言っている道徳科学(moral science)は、2001年12月に破綻したエンロンや2002年7月に破綻したワールドコム、2022年1月に有罪評決が出たセラノス創業者のエリザベス・ホームズの事件などを経て、再び注目されているように思えます。2010年に「ハーバード白熱教室」で話題となったマイケル・サンデルの肩書をWikipediaで見ると、哲学者、政治哲学者、倫理学者、とあります。また、クレイトン・クリステンセンが、なぜ、ハーバードのようなところで学んで事業でも成功する事業家達が、プライベートで失敗するのか、というジレンマを書ききった『イノベーション・オブ・ライフ』が刊行されたのは2012年。これらも道徳科学(moral science)の延長にある思想だと思えますし「実践科学」の上では重要な教えだと思います。
ドラッカー自身も、自分の思考の系譜について、先人を讃えています。しかし、ドラッカーがその時代に「科学」として見ていた概念が、ドラッカーにとってネガティブなものであったため、ドラッカー自身の思考や思想が「科学」と見做されるのを阻んできた。そういう不幸な出来事があって、ドラッカー研究というのはあまり進んでいないのではないかと思われます。
ところが、今は昔と違い、研究手法の多様化が進んでいます。その代表的なものが、ドラッカーの時代には影も形もなかったであろう「質的研究法」という考え方です。これは、めちゃめちゃ簡単に言うと、哲学が応用されることによって人間の認知の要素も組み込んだ科学体系が構築できるよ、という話。この手法を使えば「ドラッカーの眼」というものを理論に組み入れることにより、体系だった「ドラッカー理論」というものを形にすることもできそうだ、ということになります。
そんなこともふと思いついたこともあり、これらのお話はもう少し精緻化させて、できれば論文のような形で、なんとかドラッカー研究者の方にお伝えできる形で紹介したいところだと思っています。
現場からは以上です。
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