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リベラルアーツとしてのドラッカーの可能性

「河童の目線で人世を読み解く」市井カッパ(仮名)です。
「すべての組織と人間関係の悩みを祓い癒し、自然態で生きる人を増やす」をミッションに社会学的視点から文章を書いております。

御覧いただき、ありがとうございます。


リベラルアーツとドラッカーについて書きます、と宣言した前回の記事はこちらです。

もう一人のキルケゴール

さて、本題に入る前に、ドラッカー思想の中の哲学について話をする際に、必ず触れなければならない文章があります。それが、「もう一人のキルケゴール」という小論です。この文章がなかなかどうして、厄介な文章になっています。

この文章の冒頭は、「ここ数年続いたキルケゴール・ブームも、ようやく下火の兆しを見せはじめた。キルケゴールのためにも、このようなブームは早く終わってもらいたい。」(『すでに起こった未来』12章 P.275)というよくわからない感じで始まります。

この文章が最初に書かれたのは1949年のアメリカ。今、この本を読む我々としては、キルケゴール・ブームなんて知らんがな、と言いたいところです。

ドラッカーによると、この文章のタイトル、「もう一人のキルケゴール」というのは、当時のブーム、すなわち、「文学ブームの中でのキルケゴール像」ではなく、「宗教的なものに関心のあるキルケゴール」のことを言っているらしい。

では現在の日本において、キルケゴールが何によって憶えられているかといえば、Wikipediaによれば、

セーレン・オービュ・キェルケゴール、1813年5月5日 - 1855年11月11日)は、デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、ないしはその先駆けと評価されている。

キェルケゴールは当時とても影響力が強かったゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲルおよびヘーゲル学派の哲学あるいは青年ヘーゲル派、また(彼から見て)内容を伴わず形式ばかりにこだわる当時のデンマーク教会に対する痛烈な批判者であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BB%E3%83%BC%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%82%AD%E3%82%A7%E3%83%AB%E3%82%B1%E3%82%B4%E3%83%BC%E3%83%AB

ということで、文学でも宗教家でもなく、哲学者、思想家ということになっており、前回の記事で少し出てきたヘーゲル思想の批判者であった、ということによって憶えられているらしい。このへーゲル思想の批判については、ドラッカーも言及していて、キルケゴールの思想の説明にもつなげています。

キルケゴールは、他の宗教思想家と同じように、「人間の実存はいかにして可能か」という問いを中心に据えた。この問いこそ、18世紀まで西洋思想の中心にあったものである。(中略)
19世紀においては、「社会はいかにして可能か」というまったく異質の問いが中心となった。この問いを提起したのがルソーであり、ヘーゲルであり、古典派経済学者であった。(中略)
ルソーの一般意思、ヘーゲルによる観念の展開としての歴史、マルクスの客観的・階級的状況による人間の運命のあいだには大きな違いがある。しかし、人間の実存についての問いに対しては、いずれもみな同じように答える。そのようなものは存在しない。そもそも、そのような問い自体が存在しない。

P.F.ドラッカー『すでに起こった未来』12章 PP.276-277

前回の記事の竹田青嗣先生曰く、哲学者というのは物事を難解に言うのが得意な人達、ということでしたので、ここではあえて言葉の説明に行って泥沼にハマることは避けたいと思いますが、どうやらドラッカーは、「人間の実存はいかにして可能か」という問いと「社会はいかにして可能か」という問いの比較として、哲学者や思想家たちを考えているようです。

その上で、もう一度、確認したいことは、ドラッカーはキルケゴールを哲学者や思想家ではなく、「宗教的なものに関心のあるキルケゴール」として見ている、ということです。そして、そう見る理由について自身の目線を、「心理学者、実存主義者、あるいは元マルクス主義者」だと言っています。後年のドラッカーから見ると、「心理学者」とも「元マルクス主義者」とも思えないのですが、この頃はそういう自己認知だったのかもしれません。

後世の業績から考えれば、誰がどう考えてもドラッカーは「社会はいかにして可能か」派閥の人間のように見えます。実際、この文章が納められているのは「社会を超えて」という部になっており、その冒頭にはキルケゴールに出会った時の話として、下記のように書かれています。

 そのとき何が起こったのかを理解したのは、何年もたってからのことだ。しかし私は、何かが起こったことはただちに知った。人間の実存にかかわるような何か新しい重大な次元に出会ったことを悟ったことはただちに知った。人間の実存にかかわるような何か新しい重大な次元に出会ったことを悟った。
 そのときにはすでに、私は自分の仕事が社会にかかわるものになるだろうと予感していた。(中略)事実、何年間か臨時に宗教を教えることはあったが、私のこれまでの仕事はすべて社会に関することだった。

P.F.ドラッカー『すでに起こった未来』12章 P.271

この頃、ドラッカーは19歳だったと言いますから、1929年の頃です。社会に関すること、すなわち、「社会はいかにして可能か」という問いに携わる者として、「人間の実存はいかにして可能か」という問いに出会い、衝撃を受けた、という話として読み取れます。

しかし、この問いはあくまでもドラッカーにとっては思想や哲学の問いではなく、宗教の問いだったのでしょう。結果として、ドラッカーはキルケゴールを「信仰の人」として扱うことになったのでしょう。

そう考えると、この文章は「社会はいかにして可能か」という問いと「人間の実存はいかにして可能か」という問いの両方に答えを出してやるぞ、というドラッカーの39歳時点での熱き宣言文と言う風に、この文章は読めます。それがよく読み取れる、この文章の最後の部分も引用しておきましょう。

 キルケゴールの信仰も、人間の実存にかかわる恐るべき孤独・隔離・矛盾を克服することはできない。しかし人間の実存は、それに意味を与えることによって、耐えられるものにすることができる。
 全体主義の哲学は、人に死の覚悟を当てる。そのような哲学の力を過小評価することは、きわめて危険である。(中略)
 これに対して、キルケゴールの信仰もまた、人に死ぬ覚悟を与えてくれる。しかし、それは同時に、人に生きる覚悟をも与えてくれるものである。

P.F.ドラッカー『すでに起こった未来』12章 P.296

 「全体主義の哲学」の強力さに比べて、「キルケゴールの信仰」はあまりにも弱い。しかし、そこに可能性がある。そんなドラッカーの整理が読み取れます。

社会的機能および一般教養としてのマネジメント

 さて、冒頭にお伝えした通り、「ドラッカーと思想や哲学と言う話をする際に、必ず触れなければならない文章」を抑えたので、ここからが本題です。

ドラッカーの『新しい現実』という本の第4部「新しい知識社会」の第15章は、「社会的機能および一般教養としてのマネジメント(Management as a Social Action and Liberal Art)」というタイトルになっています。

この章の最後の部分の見出しが、「教養としてのマネジメント」となっていますが、原文を見ると、まさに「Management as a Liberal Art」となっていて、「リベラルアーツとしてのマネジメント」ということを書いています。引用してみましょう。

 マネジメントとは、実践と実用である。その成否は、結果によって判定される。すなわちそれは技術である。
 しかし同時にマネジメントは、人間にかかわるものであり、人間の価値観や成長や、発展にかかわるものである。すなわちそれは、人文科学である。
 マネジメントは、社会構造や地域社会とかかわりをもち、影響を与える。ここにおいても、マネジメントは人文科学である。
 さらに、著者をはじめ大勢の経営管理者とともに長年働いてきた者が知りえたように、マネジメントとは、人間の精神すなわち良かれ悪しかれ人間の本質に深くかかわるものである。
 したがってマネジメントは、まさに伝統的な意味におけるリベラルアート、一般教養である。
 知識の基本、自己認識、英知、リーダーシップにかかわりをもつがゆえに、それはリベラル、教養と呼ばれるべきものである。実践と実用にかかわりをもつがゆえにアート、技術と呼ばれるべきものである。

 P.F.ドラッカー『新しい現実』15章 P.334

最後の部分にドラッカーのリベラルアーツ観も表現されていて面白いです。リベラルアーツは、リベラル(教養)+アーツ(実践)なんですね。すごくよくわかる定義です。

ちなみに上田先生は「人文科学」と訳されていますが、原文は、humanityとなっていますので、正確には、「人間性」とか、「人道」という方が原文のニュアンスに近いようです。ちなみに、複数形の humanities は「人文科学」という意味になるようです。

実はこの話の前に、ドラッカーは「マネジメントの正当性」という話もしています。こちらも引用してみましょう。

 今日、マネジメントは社会的機能としてあまりに一般的な存在となってしまった。そしてまさにそのために、マネジメントは今日、もっとも深刻な問題に直面するに至っている。
 すなわち、マネジメントは、誰に責任を負っているのか。そして、いかなる責任を負っているのか。マネジメントの力の根拠は何か。その正当性の根拠は何か。
 これらの疑問は、経営の問題や経済の問題ではない。きわめて政治的、社会的な領域の問題である。

P.F.ドラッカー『新しい現実』15章 P.329

最後の一文の原文を見てみます。There are not business questions or economic questions. They are political questions. となっています。ビジネスや経済の話で答えないでね。これはあくまでも政治の話なんだから、ということです。

ここでいう政治の話とは、つまりは権力の正当性の話です。冒頭に紹介した前回の記事で、ホッブスの権力による支配構造の話を書きました。このホッブスの考え方に、ルソーは社会契約一般意思により、万人の自由を確保することができる、と考えた話もしました。ドラッカーによれば、これは、「社会はいかにして可能か」という問いとして解釈されています。

一方で、同時に「人間の実存はいかにして可能か」ということを考える際に、マネジメントの正当性という概念に至ったのではないか、と考えられます。

マネジメントの正当性の結論部分を引用してみましょう。

 企業のマネジメントを含め、あらゆるマネジメントが、その与えられた任務において、成果をあげる責任を負っている。
 しかし、ここに言う成果とは、何なのか。それはいかに評価すべきか。いかに実現すべきか。そしてマネジメントは、誰に責任を負うべきか。
 今日、これらの疑問が指摘されるということは、経営管理者たちが告発されているということでもある。
 未だに経営管理者たちは、自らに力が与えられているという事実、そして力には責任が伴い、正統性が不可欠であるという事実を、直視していない。
 彼らはまだ、自分たちが重要な存在であるという事実に目をつぶっている。

P.F.ドラッカー『新しい現実』15章 PP.330-331

企業のトップマネジメントが絡む不祥事が頻発する日本において、このドラッカーの1989年の指摘は、もう35年前のことになりますが、預言者であるかのようにしっくりきます。

「企業のマネジメントを含め、あらゆるマネジメントが」とありますのは、この文章が書かれた頃のドラッカーは、非営利組織の経営に関心が向いた後、だから、ということもあったのではないかと思います。

その辺のドラッカーの関心の変化については、下記の記事でまとめています。

話を戻します。

このマネジメントの正当性に答えを導いてくれるのが、「リベラルアーツとしてのマネジメント」ということになるのです。

リベラルアーツとしてのマネジメント」の続きの部分を引用します。

かくして経営管理者たる者は、心理学や哲学、経済学や歴史など、人文科学と社会科学に関するあらゆる知識と洞察を身につけなければならない。さらに物理的科学を身につけなければならない。また、倫理学を身につけなければならない。

P.F.ドラッカー『新しい現実』15章 P.335

心理学
哲学
経済学
歴史
物理的科学
倫理学

ドラッカーが、なぜ、この順番にしたのか、というのは非常に興味深いところですが、これらを学ぶことによって、マネジメントの正当性への疑問も解ける、ということが、どうやらこの文章で言いたいことのようです。そしてこの文章は下記のように締めくくられます。

そして、このマネジメントの体系と実践を通じて、ふたたび人文科学が、注目され、認められ、影響を持ち、意味のある存在となっていかなければならない。

P.F.ドラッカー『新しい現実』15章 P.336

ちなみに、この最後の文章の「人文科学」は、原文では、humanities となっています。

分析から知覚へー新しい世界観

1993年に書かれた『すでに起こった未来』に収められた「ある社会生態学者の回想」では、ドラッカーは自らの思想体系を科学と見られることに拒絶反応を示しています。ただし、敢えて言うなら、と、自らも「200年も前に死語となった」と言っている「道徳科学(moral science)」という言葉を引っ張り出してきています。今回、取り扱っている『新しい現実』は1989年ですので、その後、ドラッカーはこの言葉に行きついたのかもしれません。

ちなみに、その辺のことはこちらの記事にまとめています。

1989年の『新しい現実』の方では、最終章は、「分析から知覚へー新しい世界観」とされています。この最後の部分、印象的な文章を引用してみます。

今や、物理的な世界観から生物学的な世界観への移行が、新しい総合哲学の登場を求めている。

P.F.ドラッカー『新しい現実』終章 P.383

ここでドラッカーの言っている「物理的な世界観」とは章タイトルの言うように「分析」可能な世界観のことだと思われます。そして逆に「生物学的な世界観」というのは「知覚」可能な世界観のことでしょう。こういうことを言っているので、この先のドラッカーの著作ではこの「新しい総合哲学」が展開されると思いきや、次の著作は『非営利組織の経営』ですし、結局、今回紹介した「ある社会生態学者の回想」以外には、この話の展開が見られません。

その上で、冒頭に紹介しました「もう一人のキルケゴール」、これはなんと1949年に書かれた文章ですが、これを1993年刊行の『すでに起こった未来』の最後の部に入れ、1992年に書き下ろした「ある社会生態学者の回想」でこの本を締めくくっているのです。

これはあくまでも私の想像ですが、「社会はいかにして可能か」という問いと「人間の実存はいかにして可能か」という問いの両方に答えを出してやるぞ、というドラッカーの39歳時点での熱き宣言は、結局、ドラッカーがマネジメントを拡張し、『非営利組織の経営』にたどり着いたことで、やはり、自分は社会の側からこれを両立させてやるぞ、というところに行きついたのではないか、と思います。

思想家・哲学者としてのドラッカー

長くなりましたが、ここまで見てきて、二つのことが明らかになったと思っています。一つ目は、ドラッカーは様々な哲学や思想に触れ、それを活かしていかに人類が幸せになれるのかを探求してきた思想家であり、哲学者であるという側面です。

ここでいう哲学の考え方については下記の記事に書きましたのでよろしければご参考ください。

もうひとつは、これはどうでもいいことですが、なぜ、ドラッカーが説教臭いと言われるのか、ということです。知人の経営者の方で、「ドラッカーの本を読むと、ドラッカーに説教されているように感じる」とおっしゃっていた人もいたくらいです。

それはつまり、彼の考え方の中には、大事なものとして道徳や倫理といった概念があり、いわゆるビジネスで成功する方法を手っ取り早く知りたい、苦労しないでマネジメントがうまくいく方法を知りたい、という人たちにとっては、道徳とか倫理なんてどうでもいいから、やり方を教えてくれ、と言いたくなってくるのでしょう。

そういう人が多いからこそ、ドラッカーは「マネジメントの正当性」なんてことを言っている訳で、これはなかなか分かり合えない世界だなぁ、と思うのです。

もちろん、ドラッカーの著作の中には、そういったノウハウもたくさん書かれているように思います。ですので、ドラッカーの思いの部分と、ハウツーの部分とを、きちんと分離して整理する必要があるのでは、と思います。

また、思想家であるドラッカーはまた、考えることを辞めない人でもあります。ということは、時代時代において、考えていることも少しづつ変わって言っている、ということです。そこも考慮に入れて、整理することが必要であると思われます。

リベラルアーツとしてのドラッカーの可能性

めちゃめちゃ長くなりました。いよいよ結論です。リベラルアーツというのはドラッカーの定義に従えば、リベラル(教養)+アーツ(技術)であり、様々なことを知り、それを実践につなげるものです。

その題材は別に何でも構わないので、考えることが重要です。ドラッカーは、マネジメントはリベラルアーツだ、と言っています。それは、例えば心理学にしても哲学にしても、倫理学にしても、人間というものを知ることによってのみ、マネジメントは実践で成果を出せるのであり、逆に言えば、成果を出すためには、教養が必要だ、と言っていました。

では、ドラッカーの膨大なテキスト群を、そのままリベラルアーツの学びに活用できるのか、と言えば、どうでしょう。それは少し疑問が残ります。

古代ギリシアの哲学者の遺した書物の特徴は、割とこじんまりとまとまっているとうメリットがあります。現在のわれわれが当たり前だと思っているある程度のブ厚さのある書籍というのは、これは書籍というものが商業に乗っかってからのことです。結果として、ドラッカーの著作も数が多い上に、すべて、当たり前のことですが、商品として価値が出るくらいに量が多い。

なので、ドラッカーの膨大な著作を研究し、整理する、という作業がまずは必要な気がします。

さらにドラッカーは思想家なので、その言葉の背景には意図があります。「分析」という言葉の背後にはカントが居たりします。そこまでの解釈を書き込まないと、ドラッカーが何を言いたいのか、正確にはわからなかったりします。

ただ、このドラッカーの膨大な著作、その前提となる膨大な知識量と、さらには様々な偉人たちとの邂逅、それらがエッセンスとなって抽出されていると思うと、これらをきちんと発掘し、研究する価値はあるように思います。しかし、それには時間と労力が必要でしょう。

ということで、もし、正確に、ということを考えるのでしたら、ドラッカーの著作を使ってのリベラルアーツはなかなか手ごわいかもしれません。

しかし、そんなに高望みをしないのであれば、可能な方法はあります。ドラッカーの理解者であり友人であり翻訳者の上田惇生先生は、ドラッカーについて、使えるところを使えばいい、とおっしゃっていたそうです。

ドラッカーの言っていることが全部はわからなくても、ドラッカーがここで言っていることはどういうことなんだろう?と考えることで、充分、価値がある、と。これはまさに、リベラルアーツとしてのドラッカーの使い方なのかもしれません。

ドラッカーも「分析」から「知覚」へ、と言っていました。全部を知って整理して、という発想は「分析」の発想です。そうではなく、自分が何を思ったのか、何を感じたのか、そういう「知覚」に焦点を充てることで、自己認識が高められ、思考レベルが成長する。そちらの方が実践レベルでは、大事なことでしょう。

将来的に機会とニーズがあれば、そういう勉強会のようなものもやってみたいな、と思いますが、とりあえず手始めとして、現在、マネジメントのポジションにある方には、自分のマネジメントの正当性は何によって認められるのか?ということを、胸に手を当てて考えていただくところから始めていただくと良いのかな、と思いました。

現場からは以上です。お読みいただき、ありがとうございました。
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市井カッパ
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