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ガルウェイ『インナーゲーム』で発見してしまった謎を解く

お読みいただき、ありがとうございます。

今回は、ある方とメッセージのやりとりをしていて、たまたま発見してしまった謎と、その謎解きの仮説について、記録しておこうと思います。

コーチングの祖と言われている人物にT・ガルウェイが居ます。彼はハーバードでテニスを教えていて、コーチングを発見した、ということになっています。

ガルウェイに実際に会って話をした、という方のお話ですと、実際には彼の友人が実践者だったようです。と言うのも、彼がちょっとサボってテニスができる友達にコーチ役を頼んで外出したところ、帰ってきたら、初心者が、ガルウェイ自身が指導するより早く上達していた。

びっくりしたガルウェイが、何をしたのか尋ねると、友人はテニスの教え方がわからないので、やってみせて、それでやってもらって、フィードバックしながらやったらこうなった、というような説明をしたそうです。

絵にするとこんな感じです。

原口佳典『人の力を引き出すコーチング術』より

で、そのときの体験をもとに理論化したのが『インナーゲーム』なのですが、この考え方の中心にあるのが自己を「セルフ1」「セルフ2」に分ける、という発想なのですが、上に書いた「ある方とメッセージのやりとり」というのは、この考え方の元ってどこから来たんだろうね、という話をしていたのです。

で、その答えではないのですが、この流れで『インナーゲーム』を読み返していて、ある記述にひっかかりました。

引用してみます。

禅の大家、故・鈴木大拙は、自著『弓道と禅』の前書きの中で、以下のように述べている。

それについて思いを巡らし、熟考し、考えをまとめようとする刹那に、本来の無我の境地は失われ、思考が邪魔者として立ちはだかる。矢は放たれても、もはや的に向かってまっすぐに飛ぶことはない。的自体が、元の位置からはすでに消えているのだ。計算が─つまりはそれは誤算にすぎないのだが─割り込んでくる。

人は考える葦と、古来言われてきた。しかし、真の偉大な能力は、計算や思考をしないときにこそ、発揮されるのだ。「子供のような純真さ」を、人は取り戻すべきである。

W・T・ガルウェイ『新インナーゲーム』P.58

はい。ここの記述の何が問題かと言いますと、あれ、鈴木大拙って、弓の本なんて出していたっけ?ということです。

弓と禅、と言えば、オイゲン・ヘリゲルさんです。彼はドイツ系オランダ人にて神秘学者で鈴木大拙さんの禅の本を読んで日本に憧れを抱き、実際に日本に訪問して弓道を習い、そこに勝手に「禅」を見出した体験を『弓と禅』にまとめ、これが世界的にベストセラーになります。

その辺の深掘りに関しては、下記の文章にまとめていますので、御興味ある方はご覧になってみてください。

どうでもいいですが、この文章は「コーチング考古学」の最初の文章かなーと思っています。(ほんとうにどうでもいい。)

ひとしきり調べましたが、鈴木大拙さんに『弓道と禅』という著作は見当たらない。

では、オイゲン・ヘリゲルの本のこと勘違いしたのかと言えば、この文章がどうもオイゲン・ヘリゲルの文章っぽくないのです。

「人間は考える葦である」は思想家パスカルの言葉ですが、日本に憧れ、禅に憧れてやってきたオイゲン・ヘリゲルが、こんな達観した視点で語るか?

実際、翻訳されている『弓と禅』の前書きも見てみましたが、こんな感じです。

一九三六年雑誌”日本”に、弓道(弓を射る騎士的技術)という題で、私がベルリンの日独協会で行った講演が掲載された。もちろん大変控え目ではあったが、弓道と”禅”との間に存在する密接なつながりを明らかにすることが、私の講演の眼目であった。(中略)それにもかかわらず、私の論述は多大の反響をまき起こした。(中略)まさに、今はもう三版を重ねている鈴木大拙博士の重要な禅書『大いなる解放』を発行し、また周到に計画された仏教叢書を出版しているクルト・ウェラー書店が、私の講演の新版を刊行することに同意をするかを問い合わせてきた時、私は快くそれに応じたのであった。

オイゲン・ヘリゲル『弓と禅』(福村出版)PP.13-14

読むからにオイゲン・ヘリゲルさんの人の良さといいますか、鈴木大拙さんや日本思想へのリスペクトが伝わってきます。と、同時に、ガルウェイが引用したような文章を、この方が書くとは思えない。

そこで、もう一度、引用部分を見てみました。

禅の大家、故・鈴木大拙は、自著『弓道と禅』の前書きの中で、以下のように述べている。

W・T・ガルウェイ『新インナーゲーム』P.58

これはもしや、ガルウェイの勘違いか、あるいは訳者の誤訳ではあるまいか?

そんな仮説が浮かびました。

そこでちょっと調べてみたら、ありました。

引用します。

日本古来の武道のひとつ弓道の奥深さを示す言葉として、“弓道は立禅である”との言もあるそうです。金沢において禅(Zen)といえば、金沢出身の哲学者・鈴木大拙が思い浮かびます。それもそのはず、ドイツ人哲学者ヘリゲルの著作「弓と禅」英語版には、なんと大拙が序文を寄せていました。

https://www.kanazawa-csc-kk.jp/story/zen_and_kyudo/

実際、角川文庫で刊行されている版では、この鈴木大拙による序文が、「英語版・ドイツ語版『弓と禅』序文」として、巻末に載っています。その最後には、このような表記があります*。

鈴木大拙
マサチューセッツ州 イブスナウィッチにて
一九五三年三月

オイゲン・ヘリゲル『新訳 弓と禅』(角川文庫)P.183

これで、1953年3月に書かれたこの前書きが載った、英語版の『弓と禅』を、ガルウェイは確かに読んでいた、ということが証明されました。

この事実がなぜ重要かと言うと、これも風の噂で恐縮ですが、ガルウェイは生前、『弓と禅』から影響を受けていない、と言っていた、ということでした。個人的には、これがどうにもひっかっていた。

そして、この序文を改めて読んでみたところ、気になる文章がありました。

弓道の場合には、射手と的とはもはや二つの対立した物ではなく、一つのリアリティである。弓道家は、向かっている的を中てることに従事する人間として意識することを止める。この無意識の状態は、完全に空となって自己から抜け出て、自らの技術的な技を行える者になった時にのみ、実現できる。

オイゲン・ヘリゲル『新訳 弓と禅』(角川文庫)PP.179-180

この辺をガルウェイが読んだとき、弓道とテニスとの間になにか共通項を見出したのではないか?

そこからセルフ1、セルフ2の発想に思い至ったのではないか?

だから、ガルウェイは、オイゲン・ヘリゲルの『弓と禅』から影響を受けたわけではなく、あくまでも鈴木大拙の序文から影響を受けた、と言いたかったのではないか?

そんな風に思い至ったというわけです。

現場からは以上です。

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