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「競争」から「共創」へ
子どもの頃にやった(やらされた)遊びの中で、「椅子取りゲーム」が一番苦手だった。
限られた椅子をみんなで奪い合う。
誰かを押しのけたり、突き飛ばしたりして「椅子」を奪い合う。
ゲームが進むにつれて減っていく椅子。
最後には1つの椅子を2人で奪いあう。
時には言い争いや喧嘩に発展してしまったり・・・
僕は真っ先に脱落する方ではなかったけど、だいたい3回戦くらいで椅子を奪い合うのに嫌気がさしてきて、先生にバレないようにわざと負けていた。
「なんでこんな遊びを学校でやるんだろう?」
「相手を突き飛ばして喜んだり、椅子に座れずに嫌な思いをする子がいるのになんでこんなことやるんだろう?」
と疑問に思っていた。
大人になった今なら、あれはきっと「社会には競争というものが存在していて、そこではどのような振る舞いをすべきか?」ということに馴染むための遊びだったんだろうなと理解できる。
でも、僕は椅子取りゲームが苦手だった。
競争が苦手
実際のところ、大人になった今でも「誰かと競争する」ということ自体もあまり好きではない。
もちろん、受験勉強を経験したし20代の頃は国家試験にチャレンジしていた時期もあるので、「競争する環境」自体を否定している訳でもない。
どちらかというと、「相手を打ち負かす」とか「相手に打ち勝つ」といったことよりも、「自分自身がいかに頑張るか」とか「自分がどれだけベストを尽くすのか」ということを意識していた。
でも、そういう考え方は土壇場で「相手にも負けるどころか自分にも負けてしまう」といった弱さにつながるのだとも思う。
僕は、何かで「一番になったことがない」から・・・。
自分の中にある矛盾
「そんなに競争が嫌なら、競争がない社会で生きていけば良い!」
そういう考え方もある。
でも、いまのところ「競争がない社会」にはたどり着いていない。
というよりも、「競争がない社会」で生きていきたいとは思っていないのだ。
経済的に豊かになりたいという欲求は強いし、承認欲求も強い方だと思う。
だから、「競争はやめましょう。みんな同じように扱いましょう」という社会で生きていきたいとは思っていない。
努力しない人よりも努力した人が報われる社会であるべきだとは思う。
「それって矛盾するのでは?」と思われるかもしれない。
確かに、矛盾するかもしれない。
でも、よくよく考えてみると僕は「競争がある社会」を否定しているのではなく、「競争することを大前提としている社会」が苦手なのだ。
椅子が足りないなら
冒頭の「椅子取りゲーム」の場合で言うと、「椅子が足りないからみんなで椅子を取り合いましょう」ということが大前提になっていること自体が嫌なのだ。
椅子が足りないなら余っているところから持ってこれば良いし、なければ買ってこれば良い。
お金がないなら作れば良い。
「いやいや、それだとゲームにならないでしょ!」
ごもっともです。
子どもの頃の僕は「そんなゲームを学校でやらなくてもいいのでは?」と思っていた。
もしくは、「どうしてもこんなゲームを学校でやらないといけない教育上の理由があるのであれば、先にその理由を説明して欲しい」と思う。
「世の中には競争というものが必ずある」ということ「椅子取りゲームを通じて教えたい」のであれば、それを先に教えて欲しい。
児童教育に詳しいわけではないので、今の教育現場で椅子取りゲームがまだ行われているのかどうかわからないが、「傷つく可能性がある子どもが出てくる可能性がある」遊びをあえてやるならその教育目的をちゃんと伝えて欲しい。
椅子を奪われた子はどうなるの?
椅子を奪われた子はどうなるのだろうか?
僕は昭和生まれなのだけど、少なくとも僕が小学校の頃は「椅子取りゲーム」はよく学校の授業の中で行われていた。
その時に椅子を奪われた子ども達は、円に並べられた椅子の外側におとなしく座って、残りの椅子が奪われる様子を観戦していた。
あれはそういうゲームなんだろうけど、実際の社会では「椅子をうばわれた人は、別のタイミングで椅子を奪いにくる」ことが多い。
特に、相手が弱っているタイミングや不利な状況の時に奪いにくる。
僕が知っている椅子取りゲームではそこまで教えられていない。
椅子が足りないという前提
椅子取りゲームの大前提は次の3つだ。
1.その場にいる人数に対して椅子の数が1つ足りない
2.椅子を奪い合う
3.椅子も人数も減っていく
思うに、「1.その場にいる人数に対して椅子の数が1つ足りない」という前提が「2.椅子を奪い合う」という前提を生み出している。
しかし、「1.その場にいる人数に対して椅子の数が1つ足りない」のではなく、「その場にない椅子がどこか別の場所にある」という前提だったとしたら?
その場合「2.椅子を奪い合う」という前提ではなく、「別の場所にある椅子を探してこよう」という前提もあり得る。
もしくは、「2.椅子を奪い合う」のではなく、「椅子の代わりになるものを見つける」とか「椅子を作る」とか。
屁理屈のように聞こえるかもしれませんが、これが「椅子取りゲーム」の椅子の話ではなく、「資源」の話だったらどうでしょうか?
「資源が足りない」だから「奪い合う」
そういう前提ではなく
「別の場所にある資源を探す」「足りない資源の代わりになるものを見つける」「別の資源を作る」という前提で考えてみる。
こういう前提だったとしたら、椅子に座っていた人達も協力してくれるかもしれない。
だって、自分の椅子を奪われたくないから。
さらにそれが進んで、もはや「椅子が必要ない」状況になるかもしれない。
奪い合うよりも、みんなが満足する結果を求めた方が良いと感じるかもしれない。
「競争」から「共創」へ
そうなるといいけどなあ。