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谷口和弘さん ミスチルマネジメント会社の社長 スタートは楽器運びから
谷口和弘さんはMr.Children(ミスチル)やナオト・インティライミさん、大久保嘉人さんのマネジメントを担当している株式会社エンジンの代表取締役社長です。株式会社エンジンは谷口和弘さんが株式会社OORONG-SHAから独立して立ち上げました。谷口和弘さんはマニピュレーターとして、音楽制作の業界に入りましたが、ミスチルとの出会いで制作だけでなく、アーティストマネジメントも手がけるようになりました。
谷口和弘さんが音楽業界に入るきっかけはミスチル?
![谷口和弘](https://assets.st-note.com/img/1734441019-sG9heuKpVwb241xBSdWayzIP.jpg?width=1200)
谷口和弘さんが音楽業界に入るきっかけはなんだったのでしょうか。それは学生時代にたまたま触ったギターでした。1本のギターを高校時代、友人の家で弾く機会があり、そのうち、その仲間たちと始めたバンド。プロのミュージシャンになる腕前はないけれど、「音楽の仕事がしたい」「機械が好き」「エンジニアは面白そう」、そんな思いから選んだ進路が音楽関連の専門学校、キャットミュージックカレッジ専門学校だったそうです。
専門学校を卒業するも就職できずバイト生活
谷口和弘さんが入学したキャットミュージックカレッジ専門学校は大阪にあるボーカル、ギター、ベース、ドラム、音響、映像、照明、ダンスなどのプロを目指すための総合音楽専門学校です。総合学科、ミュージシャン学科、音楽技術学科、ダンス学科の4学科からなる同校からは多くのミュージシャン、ダンサーのほか、楽器のリペアマン、PAエンジニア、レコーディングエンジニア輩出しています。
谷口和弘さんはこのキャットミュージックカレッジ専門学校で音響を学び、スタジオエンジニアを目指したのですが、卒業時にはどこのスタジオにも入社することができず、実家の三重に戻り、東京へ出るための100万円を貯めるためのバイトに励んだとか。あるウェブメディアのインタビューで当時を振り返り、谷口和弘さんは次のように語っています。「今考えたら本当に大馬鹿野郎なんですけどね(笑)。で、一生懸命バイトして半年くらいで100万貯めて、仕事は決まっていないけど、とにかく音楽業界に潜り込んで上を目指そうと」(谷口和弘さんインタビューより)。
ミスチルのALIVEを聴きながら上京した谷口和弘さん
![谷口和弘](https://assets.st-note.com/img/1734441324-ABt9cEVRIzM7u3y5LvnNQg4W.jpg?width=1200)
のちに自身がマネジメントを担当することになるとは思いもしなかったミスチル。谷口和弘さんが上京したのは97年9月。ちょうどそのミスチルが前年の96年、10枚目のシングル「名もなき詩」をリリースし、オリコンシングルチャートで初週の売上枚数が当時の歴代最高である120.8万枚を記録。オリコン史上初となる初週売上げのみで100万枚を突破した、その人気絶頂の中、活動を休止してしまった半年後のことでした。
谷口和弘さんももちろんミスチルのファンであったことはいうまでもありません。上京するために父親が会社から借りてきてくれたライトバンにわずかな家財道具を積み込み、義兄と3人で東京へ向かったのです。カーオーディオに自分で編集したミスチルのベストのカセットテープを入れて、東京に入ったときには当時好きだった「ALIVE」が流れていたそうです。
ミスチルはきっかけではなかったのです。しかし、ミスチルの「ALIVE」が谷口和弘さんの気持ちを後押ししたのではないでしょうか。「今言えばすごくかっこいい話になるんですけどね。それだけMr.Childrenって影響力も大きいし、みんなが大好きだったバンドだったんですよね」(谷口和弘さんインタビューより)。
自らの手で運を手繰り寄せた谷口和弘さん
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東京に出てきた谷口和弘さんがすぐに音楽業界の仕事を見つけられるほど甘い世界ではないのです。しかし運もあったのでしょう。そしてその運を、谷口和弘さんは自らの手で手繰り寄せたのです。
機材運びからスタート
上京3ヶ月後には人気グループのMy Little Loverを率いていた小林武史さんが音楽制作プロデュースチームとして設立し、のちに音源制作・プロモーション・ライブ制作など、アーティストに関わるすべての業務を手掛けるようになったOORONG-SHA(烏龍舎)の子会社「ウーロビート」で機材運びの仕事を見つけたのです。
機材運びが自身の業務だった谷口和弘さんですが、マニピュレーターの仕事だけは後ろについて手伝わせてもらっていたのだそうです。現在では当たり前になっている音響制作やレコーディングにおけるコンピューターの活用。この技術を、エンジニアの後ろについて、自ら学んだのです。しかし自身がマニピュレーターとして仕事をするのはもう少し先のことになります。
マニピュレターとして初めて参加したのは「ゆず」のアルバム
1999年にリリースされた人気グループ「ゆず」のアルバム「ゆずえん」。谷口和弘さんが初めてマニピュレーターとしてレコーディングに参加したアルバムです。マニピュレーターは楽曲制作でミュージシャンによる生演奏以外の部分の音源をプログラミングで制作します。また、ライブではその音源のオペレーションを行います。現代のシンセサイザーやサンプリングなどを駆使した楽曲作りにおいて重要な役割を担います。谷口和弘さんにマニピュレーターで参加しないか、と声をかけたのが寺岡呼人さんでした。そして寺岡呼人さんと出会った場にいたのがミスチルのメンバーとミスチルの当時のチーフマネージャーだったのです。
「ミスチルとの出会いはサッカー」という谷口和弘さん
ミスチルとの出会い、きっかけはサッカーでした。谷口和弘さんは子供の頃から、音楽に夢中になってバンドをはじめる高校時代まではサッカーにどっぷりの日々だったのです。たまたま谷口和弘さんがサッカー経験者であることを知ったミスチルのチーフマネージャーからサッカーをしようと誘われ、行ってみると、寺岡呼人さん、ミスチルのメンバーがいた、というのです。
その場で寺岡呼人さんから声がかかり、ゆずのレコーディングに参加することになったのです。ゆずの次は藤木直人さん。1999年7月にリリースされたデビュー曲「世界の果て」の企画準備段階であるプリプロから参加と、マニピュレーターで現場に出ることが増えていったそうです。
ミスチルの合宿レコーディングへ!
![谷口和弘](https://assets.st-note.com/img/1734441722-yUT8N3LwKqpSR62IzFflYsn7.jpg?width=1200)
2000年9月にリリースされたミスチル9枚目のアルバム「Q」。レコーディングはミスチルのボーカリスト、ギタリストの桜井和寿さんのプライベートスタジオのセッションから始まりました。桜井和寿さんのプライベートスタジオは山形。別荘を兼ねた作りになっていました。「山形で合宿するぞとなったんですが、セッション的な感じで曲作りをするから、一線級のマニピュレーターさんを1週間や2週間ロックしてやるというほどのものでもないし、なんとなく音が録れるやつがいたらいいな、くらいの感じだったようです」(谷口和弘さんインタビューより)。
アルバム「Q」のレコーディングはその後、ニューヨークに場所を移すことになります。谷口和弘さんはマンピュレーターとして、ニューヨークレコーディングにも同行しました。このレコーディングでチーフマネジャーから、マネジメントチームに誘われ、帰国後、「Mr.Children Concert Tour Q 2000-2001」からアシスタントマネジャーとなったのです。
ミスチルのチーフマネジャー、そして独立へ
マネジメントチームに入って14年、谷口和弘さんはチーフマネジャーになっていました。しかしそろそろ自分で責任を負って仕事をしたいという想いから独立を考え始め、烏龍舎の事業部門の分社化の流れもあって、2014年5月、谷口和弘さんは株式会社エンジンを設立し、独立することになります。ミスチルのほか、ナオト・インティライミさんのマネジメントをしていた谷口和弘さんは「今の立場から離れて、新たに別の形で自分はやっていこうと思う」と両者に伝えたところ、一緒にやっていこうということに。ミスチルは谷口和弘さんが引き続きマネジメントを担当。エンジンの所属となりました。
音楽業界で仕事をしたいという希望が叶った谷口和弘さん
遊び半分で始めたギター、音楽の仕事がしたいと思い入学した専門学校、卒業後、音楽の仕事をした、音楽の仕事を絶対にするという決意でミスチルを聴きながら、上京した谷口和弘さん。楽器運びの仕事からマニピューレーター、そしてついにはかつて自分がファンだったミスチルのマネジメント会社を経営するところまで辿りつきました。音楽業界は狭き門、なんとか入り込めても、生き残れる人は多くありません。生き残れても成功できる人はほんのわずか。今日のミスチルの活躍をみると、谷口和弘さんは成功できた人の一人といえるのではないでしょうか。