母のこと~姉と私の覚悟の差~
ちょっとまえだけど、石川県のとある大学のとある研究でがん細胞を消滅させる細胞を見つけることが出来たそうだ。そんな論文を発表した。
いつかきっと、癌で亡くなられる方がもっと減る病気になるのかもしれない。
……
……
……
母の余命宣告を受けて私は実感がわかないでいた。
たしかに顔色も黄疸が出ていたけど、つい最近まで帰宅していろいろしていたし、普通に話せていた。
3ヶ月ってもっとギリギリなことを言うのじゃないのか。
寝たきりで酸素マスクで心電図みたいなのつけて……。
母の死んでもいいか?だけが鼓膜にこびりついて離れない。当然ダメである。
気力だけは捨てないで欲しい。諦めなければ生きれるのなら生きて欲しい。
その時はそうとしか思えなかった。
辛い治療も治るためにやっているのだから。
でも、姉は「かぁさんが決めていい。」と言っていた。
私は姉がなぜその時そんな言葉を言ったのかその時は理解が出来なかった。
姉はきっと余命の意味も母の辛さも現実もわかっていたからだろう。もう辛いも痛いも気持ち悪いも家族のそばにいれないも……全部わかっての楽にさせてあげさせたい。その優しさからの言葉だった。
でも私は母が死ぬという意味ではなく言葉だけがぐるぐるして、駄々を捏ねて いやや。いやや。と言うしかできなくて。
母は悲しそうにそして寂しそうに 縋るような声で
もう少しだけ頑張ります
と先生に言った。
先生は
わかりました。と言った。
そして、母が「今日だけ家に帰りたい」といった。
正直なところ家に帰られる状態ではなかったかもしれない。先生も悩んでいた。
でも母が、「おねがいします。家に帰りたいです。」と。
先生は渋々でした。何かあったら必ず帰ってきてと。そして、最大2日間(2泊3日)だけ帰宅が許された。
母と姉の車に乗って帰宅をした。
点滴の袋、それ用のBOX、尿の袋、胆汁?用の袋
なんかたくさんの装備品もそのまま持って帰った。
私の部屋のベットはいとこから貰った折りたたみ式で急いで1階におろして母用のベットにした。
寝ていいよ。と言ったら寝るのが惜しいといった。
でも、もう遅いからと言って 寝てもらった。
私は隣に寝ずに自分の部屋にこもった。
そして、朝になり久しぶりに朝から学校へ行ってきた。
母は眠っていた。ただいまというと、少しだけ笑っておかえりと言った。
大丈夫?と聞くと大丈夫。と答えた。
そして、少し眠った。
この日姉は学校を休んだ。
姉と買い物へ出かけた。
姉が「オカンが家におりたいならずっとおらしてあげたい。私、休学する。で、バイトはせんとだめやからビヨの協力が必要になる。」といった。
私は姉の方が未来は明るく感じていたし、休学することが何となくもったいない気がしていた。
ビヨ「休学するんもったいなくない?費用が足りんの?何が足りの?何したら助かるの?」ときいた。
初めて姉と今の現状を話し合った。
お金は保険で賄えそうだけど、私たちの生活する費用や家のローンやその他諸々、お母さんの面倒をみること、今後の予想すべきことをいろいろ話した。
正直、かなりキツキツであることが分かった。
ビヨ「私、高校、定時に転入しようかな。そしたらもっとバイトできるしなにかと手伝えると思う。」
そうして、姉の理解を得たところで、家に帰って母と話した。
姉の休学と私の定時編入。
母は泣くような顔で
「ごめんねごめんね」そう繰り返し、「そばにおりたい。ずっとおりたい。」と言った。
差し出してきた手は震えていて握る握力のなさと冷たさにゾクリとしたのを覚えている。
次の日 土曜だったのでみんなでそばに居た。
母が珍しくスプーンで1口 卵がゆを食べてくれた。
立ちたいとも言って立つ練習もした。
母の足はパンパンなのにひょろひょろでビックリした。
そして、姉が看護でならったベットにいながらの洗髪を母に施してあげた。
母は「あー気持ちいいね。幸せやね。ありがとうありがとう。」と繰り返した。
私は脚を揉み揉みした。
日曜日になり、少しだけ体調がよくなかった。
朝からゲボゲボと何かを吐き続けていた。
姉が「病院戻ろう?」というと母は「……。」何も言わなかった。
戻りたくないと言えばきっと迷惑をかけると思ったのかもしれない。もしかしたら、二度と家に戻れないと思ったのかもしれない。でも、何も言わずに病院へ向かった。
休日入口につくと担当の看護師さんが待っててくれた。
そして、そのまま部屋に入る。
私たちはその日は帰ることにした。
次の週には
姉はもう即休学した。
私は先生に相談してとりあえず二年次から定時制へ編入することになった。単位を持って行った方が良いとの判断である。
姉は母の病院や書類関係や申請などの対応をして、私は家のことやらをしたりするわけになった。