日本文化の縁側 第五回琵琶の回資料
皆様こんばんは!
この度は日本文化倶楽部 日本文化の縁側でお話させていただきます。
琵琶語りのコタロウと申します。
さて第五回目となります。琵琶の回でございますが、「肥後琵琶」ということで腕によりをかけて、お伝えできればと考えております。
今回お話させていただく「肥後琵琶」」ですが、
この中でも「平家琵琶」と「盲僧琵琶」の影響を受けた琵琶になります。
簡単な体系図をご覧ください。
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諸説ございますが、だいたい組み込めているのではないかと思います。
肥後琵琶は盲僧・盲人琵琶の流れに平家琵琶の当道座の検校の流れが入っております。
ではお次に大体の年代をお入れします。
(画像はクリックすると大きくなります。)
肥後琵琶は1674年に発祥です。
1674年?ピンとこられた方はほぼ神様だと思います。
この年に幕府が盲僧に対し「官位院号袈裟停止の事」を出されて、当道座以外の盲僧は院号、官位、袈裟衣の禁止、三味線などの遊芸を禁止されてしまいます。山口・九州で活躍していた仏教天台宗などに所属する盲僧たちは断固反対をするわけでありますが、肥後藩はこれを厳しく取り締まります。実際に当時肥後で活動していた盲僧とされる方々は313人、そのうち165人が院号や坊を称するまたは色衣、色袈裟着用が処罰の原因と挙げられています。以上が文献に残る資料からいえるのですが、口伝にて延宝二年(1674年)に京都より岩船検校という平家琵琶の名手が肥後にきて、肥後の菊池一族を語る「菊池くずれ」という曲を作り、当時の細川公を喜ばせ、肥後の盲僧に広めてほしいとしたのが肥後琵琶の始まりといった伝承と合わせると細川家の政治的思惑を含め、徐々に当道座に加入していく流れになっていくのも理解できます。