菊池くずれ3段
三段
さても、話はかわりて
いとまごいの熊寿丸
屋敷になれば 熊寿丸は
「父上様頼む」と申す言葉に
隈部は玄関 に立ち出でて
「誰かと思えば倅 そなたは御殿下がりをさっしゃたかまずこれにこれに」と
奥の一間に連れ戻り
「やあやあ女房 久方ぶりに倅が御殿下りをした」
両親のもてなしは数々の珍味銘酒ととのえてすすむれど
何事も変わった顔つき 不思議と見て隈部は
「何事にも変わったそなたの顔つき 君に不忠義と存じたか
又一家中に慮外したが
何に限らず親子の仲 つぶさに語れ熊寿丸」
「申しあげます 父上様君に不忠義を致しませぬ家中にも慮外
したわけでもござりませぬ。私が御前お側役致すことは
父上様もご存じと思いまする」
「そなたが側役せしことを父は百も承知 二百も承知合点
それがいかがいたしたのか」
「それがし 座頭に勤めているおりから 赤星三郎が参り
君のお言葉にはただ今までは五条隈部の倅熊寿丸より外に器量
すぐれし者はあるまじと思いしが 熊寿丸の器量と三郎の器量
物によくよくたとえれば 雪と炭とのはだちがい
三郎雪で熊寿炭 それはよけれども父上様
ある日のこと次間役の三郎を招き
歌 碁 将棋 と望まれ 歌 詩には散々に負け
武士の第一剣術と望まれたが これにも散々に打つ負け
ある日のことに少しのあやまちを取り
おのれ 知恵足らず奴 汝が様な者を予が側役に
使う甲斐はなし。目通りかなはぬ
玄関番みにまかり下りおろう
短慮の大将くわゆうにおいさけ
次間役の三郎を側役に召し使い給う
お茶の給仕も三郎丸 ご飯の給仕もも三郎ぞと
お気に入ること限りなし
それに引き替え それがしは 役もだんだん多い中
いかなるあやまり ありとてばとて
昨日までも今日までも 側役致せし それがしが
家中満座のその中で 玄関役がどうして 勤めらりょうか
御前にありし 三郎丸刺し殺し
この身は返す刀で切腹せんと 御前に忍び入り
刺し殺そうとしたものの
我が腹切って死んだなら後に残る父が心配と思い
悪いことと知りながら病気といつわって
御殿下がりを致しました
それがしの身の上をいっとうり御推量くださいませ父上様
「なるほどなるほど昨日までも今朝までも 側役致せしその方が
家中満座のそのなかに 玄関役がどうして致されりょうか
必ず心配するな 熊寿丸 この父隈部には 赤星と
かねて遺恨のある仲なれば これを幸いに三郎丸を
亡き者にして 再びそなたを側役に致すことは父が胸にあり
女房 花田の民部時純を早く参れと申されよ」
「はっつ」と答えて 女房は 花田の民部に使いを立て
使いの立つより 時純はいかなる 姉様のご用なるかと
早 取るものもとりあえず
駒屋をさして 飛んでゆく
明珍鍛えの轡をはませ 鞍おく暇もあらばこそ
裸馬にゆらりと打ち乗り 隈部屋敷と急ぎ行く
門の際に相成れば 駒は門につなぎとめ 玄関さして急ぎ行く
玄関になれば {姉上様}」と申す言葉に五条隈部
唐紙障子を開き
{民部}殿のなるか まずはこちらへ」
一間に案内を致し茶の会をはじめ 茶の会も終われば
銚子 盃取り出し 一献呑んでは からと干し
民部殿とさし 花田の民部時純は姉様と引き受けて
早 さんごんも 過ぎたれば あらず
倅 熊寿がかよう こうこうしかじかで
しかしながら 肥後菊池赤星とは阿蘇山の遺恨ある仲なれば
これを幸いに御前にありし 三郎丸を亡き者にして
倅を再び側役に居にいたさんと心得てそうろう
花田の民部時純は聞くよりも
「いかなることかと存ずれば あの三郎を殺し熊寿丸を側役に
することは いかなる手だてが兄上ござりますか}
「貴殿も知っての通り 不義いたずらは天下よりの御法度
三郎丸が御殿裏女中に文をしたためて送るところ
今宵我々二五名の者が回り来たるは夜詰めの番」
夜回りの大月弾正に頼み 君の御前に
落とし文とお届けいたすものならば 掟破りと
三郎の首落ちることは目の辺 いかがでござるか民部どの」
「なるほどなるほど 兄上様 悪いこととは思えども赤の他人
三郎と熊寿丸は代え難し しからばこの段早くしたため遊ばせ」
隈部は 早速 硯引き寄せ墨すり流し思し召されたる言の葉を
いとねんごろに書き記し
「民部殿 御殿裏女中の名はなにがしとかきましょうや」
「お待ち遊ばせ兄上様 三郎一人罪に落とせばそれにてよし
裏女中の名前を書けば一人の罪は二人の咎となる
必ず女中の名前は書きなさるな」
「しからば なんと書き申す」
「花と見染めし君様と書きたまえ」
これならば 裏女中}になにがしと相わかるまじ
枡形ように折りたたみ
文箱に収め夜回り 大月弾正を招き寄せれば」
弾正はいかなる隈部さまのご用なるかと
急いで参り
「ごめんくださりませ」
と申す言葉に隈部は立ち出でて
「大月なるか まずはこちらへ」
と奥の座敷へ案内する
酒や肴でもてなしで
「いかに 弾正 そなたを招く 外儀にあらず
そちに 一言頼むことあり
今日 我々二五人の者が夜詰めの番に当たり
汝が夜回りいたす その時に 御殿裏女中の方角で
落とし文一通ひらいてお届け申すと
君の御前に届けられよ 時の褒美は小判十両 」
隈部目的成就のあかつきは 汝望み次第に与えて得さす
この段よろしく 頼むぞ」
弾正 何がなにやら分からず 「よろしゅうございます」
と引き受けたり
「今日はゆっくり弾正呑んで帰れ」「ありがとうございます」
と 思う存分に頂戴し暇を致して帰り行く
後に残りし 隈部 花田の両人は
時 遅れては一大事と 君の御前と急ぎ行く
御殿になれば 二五人の番 そう共
今日は何時かと時を待つ
九つごろになるならば 遠音 とおおと に音高く
拍子木の音 火の用心 夜回り と 大月弾正回り行く
御殿裏女中の方に通りしが 暫くたって 立ち帰り
「申しあげます お殿様」申す言葉に隈部は
「お届け物とは何事なるぞ」
「五条隈部様 ただ今それがし御殿裏女中の方角を夜回り
いたすその時に 主のわからぬ 文箱一通落ちてござりましたゆえ
ここにお届けいたしまする」
五条隈部はその文箱何食わぬ}顔にて隆信公の目通りに参り
「申しあげますお殿様 ご承知の通り 夜回りの者共が
この文箱を届け候 いかに あそばし給うか お殿様」
五条隈部は開封いたせし 玉草を目八分に差しあげて
「お殿様 しからば 隈部代読いたします
一筆 しめし 参らせ候
わたしは そなたの姿知らと見染めしより
寝ては夢 覚めてはうつつ 片時も忘れられぬ君の面影
思いかねて一通したため参らせ候
なにとぞ いろよきご返事くださせ候 かしこ
肥後菊池赤星三郎丸より 御殿女中 花の君様へ
上から下に読み下して 隈部が
「不義はお家の法度 天下よりの掟を破りし者なるか」
おおそれながら お殿様 三郎丸は年わずか一二歳
子どもの様に思い候が 油断のならぬ三郎丸殿
この後はいかが とりはからい遊ばし給うか 我が君様」
と 隆信公は聞こし召し
「隈部よ三郎丸にかぎって そういう不義なことはあるまいぞ
何者か三郎の顔をかり 悪いこと致すものありや
必ず詮議いたされよ」
隈部 は腹を立て
「何か証拠でも しからば ござりまするか」と腹をたて
詰め寄ったり
殿と隈部の争いに罪も咎もない 三郎丸を
掟破りし罪人と五条隈部が悪を企み あくまでも罪に落とす
三郎丸の哀れな身の上 感ぜぬ人こそなかりけり
この後よりの いく末はいかが なりますかは 次の段