"Tornado Boy"と愉快な仲間たち
野茂英雄(のもひでお)って知ってますか?
今から25年前に大リーグデビューを飾った野球選手(投手)です。
当時、私は彼のファンサイトを作ってたんですよっ!(鼻息荒目)
・・・ふーん(それがどうしたの?)。
多くの人の反応はおそらくそんなところだろう。だって、今や大リーグに日本人選手がいるのは当たり前だし、推しのスポーツ選手がいれば応援ブログの一つや二つ簡単に作れるし、楽天だのDAZNだので動画配信だって観られる。海外で活躍する魅力的なプロスポーツ選手をネットで応援するなんてことは誰にだって出来るじゃないか、と。
いや、違うのよ。
いや、いや。違ったのよ、あの頃は。
⚾️海外で活躍する日本人アスリートなんて誰もいなかったし、インターネットなんてまだ誰も知らなかった
野球であれ、サッカーであれ、国内でタイトルを総ナメしたような選手が海外リーグに移って活躍するなんて前例がなかった(日本人として大リーガーになったのは野茂選手で2人目、前年にサッカーの三浦知良選手がセリエAに1シーズン渡っているがさほど活躍しなかった)。
そして、ほとんどの人がインターネットもホームページも知らずに、携帯電話なんてのもまったく普及してなかった。デジカメはもちろんなくてフィルムカメラが一般的。AppleMusicもSpotifyもなくて皆CDをレンタルしてきてカセットテープやMDにコピーして聴いてた(若い人には知らない単語かもしれない)。
つまり、誰もいないし、何もなかったのだ。
そんな時に「アメリカの人は野茂選手のことを知らないだろうから、ホームページを作ってどんな選手か教えてあげよう」と思って(無謀にもカタコトの英語で)ファンサイトを作って運用を始めてしまった。
誰が日本人選手になんて興味を持つんだろう。そもそも、幾らインターネットの母国だからといってウェブサイトなんて何人が見てくれるんだろう。…なんてことは考えなかった。少し変わった投げ方をする日本人の若者のことを愛してくれる野球ファンが一人でも増えてくれたら嬉しいな。そう思っただけだ(出来を気にしていたら、あんな下手くそな英語で始める訳がない)。
アクセスはゼロ。反応なんて全然ない。
…そう思うじゃない?普通は。
でも、奇跡は起きた。
⚾️ノモマニアが竜巻となって全米に吹き荒れ始めた
まずは、その後の野茂選手の活躍について書こう。
これがメジャーのデビュー戦。何て危なっかしい内容だと思う人もいるだろう。もうちょっとこう…素直にまっすぐ投げればコントロールが…そう感じる人もあろう。さもあらん。しかし、彼は三振を奪うのだ。ばったばったと。
一ヶ月ほど勝ち星がなく(負け星もなく)ファンをヤキモキさせた後、黒星が1つ先行するが、その後あれよあれよと6連勝。そして、なんと7月のオールスター戦で先発ピッチャーに指名される。これぞシンデレラ・ボーイ!
実はこの前年。大リーグ選手会はストライキを行ってワールドシリーズが中止になり、野球ファンを落胆させた。大リーグ挑戦中だったマイケル・ジョーダンはこれを機にシカゴ・ブルズに戻った(かなり凄い選手なんですが、ご存知ですか?)。誰もが野球に失望していた。
そこに現れたのが「くるりと背中を向けて体をしならせ、日本刀を振り下ろすように投げ込んでは、大男たちから次から次に三振を奪うニッポンからやってきた26歳のベビーフェイス」だった。
痛快だった。痛快そのものだった。
カネばっかり要求するんじゃない。まずは胸のすくようなベースボールを見せてみろ。それが出来ないくせにストライキなんてするじゃない。そんな、大リーグ・ファンたちの気持ちを代弁し、大いに鬱憤を晴らす活躍だった。
お祭り好きの野球ファン、とりわけ彼が所属していたロサンゼルス・ドジャースのファンたちは熱狂し始めた。西海岸の青い空の下で、突然、陽気な竜巻が巻き起こったみたいに(ちなみに野茂選手の風変わりな投げ方は竜巻に喩えて「トルネード投法」と呼ばれる)。その騒ぎは「ノモマニア」と呼ばれ、文字通り疾風のように全米に広がり、やがてオールスター戦出場へとつながっていく。
⚾️Tornado Boyのもとに集まり始めた愉快な仲間たち
ロサンゼルスを中心に全米でノモマニア旋風が吹き荒れる中、私の野茂選手ファンサイト(サイト名 ”Tornado Boy” )はどうなったのか。
この当時より少し後の発行になるが、雑誌『YOMIURI PC 1996年12月号』に私へのインタビュー記事がある。
しかし、「トルネードボーイ」にはしだいに人が集まり始めた。
「がんばれよ、というメールに混じって『何か手伝いたい』という人が現れました。その後は僕が頼んだり、募集したりして、徐々に人の輪が広がっていきました。もし球場に行くことがあったらレポートを送ってもらう、英語の表現の間違いに気づいたらメールで知らせてもらう。その程度の軽いノリで、あくまでボランティアでやってもらっています」
こうした世界の仲間とはとても”いい付き合い”が続いているという。
(雑誌『YOMIURI PC 1996年12月号』p.78)
切り抜き画像の中に当時のホームページのキャプチャー画像がある。何ともチープでお恥ずかしいが、当時のウェブサイトはこんなものだった。企業のオフィシャルサイトなんて無いも同然。大学の文字だらけの文献サイトか、私のような変人がやってるマニアックなサイトしかなかったし、ウェブの技術もまだまだ整ってなかった(ブラウザは改良しないと日本語が表示できなかった!)。
それでも読んでくれる人はいたのだ。野茂選手が活躍を始める前から。
「アメリカで働く日本人の一人として」「同じアジア人として」「長く大リーグを見てきたアメリカ人を代表して」野茂選手を応援したいと言う。
ちょっとびっくりした。正直、ビビった。
何やねん、この人ら。なんでこんなに熱いねん。どうすりゃいいのよ、オレ。
で、「やれるだけ、やってみるか」という結論に。そうやって、インターネット上で仲間を増やして(当時はSNSなんてなかったので、メールでやりとりするしかなかった)、記事を更新するようになった。
大リーグは先発投手を5人でローテーションするので、5試合に一度、野茂投手が登板する。それに合わせて試合のレポートを書く。今で言えば「ブログ」そのものの仕組みを手書きのHTMLファイルで更新し始めた。ああ、あの頃にnoteがあったらどれだけ楽だったか!複数ライターが参加してマガジン作って、サークル運営して…あ、英語版のサービスがないか。
その後、野茂選手の快進撃が始まった。
そして、球宴への出場がほぼ決まった頃、ほぼ同時に2つの取材依頼が来た。
人生初めての取材依頼はどちらも誰もが知っている新聞だった。片方は日本経済新聞。もう片方は…
THE WALL STREET JOURNAL
ええ、あのアメリカはニューヨークの新聞「ウォール・ストリート・ジャーナル」です。
⚾️日経とWSJから立て続けに取材を受ける
まずは論より証拠。
(写真:1995年7月1日 日本経済新聞 下段右側に記事とサイトのタイトル画像)
(写真:1995年7月7日 THE WALL STREET JOURNAL 左列4段目にインタビュー部分、「これからは日本も十分通用する」的なエラソーなことを口走ってる😅)
当時はどのメディアも(といっても新聞、雑誌、ラジオ、テレビの4つしかなかったけれど)野茂選手のネタを欲しがっていたから、どんなエピソードも記事になったんだとは思う。でも、インターネットにまで取材の対象を広げていたのは一般紙ではなくて日米の経済紙だったところが面白い。世の中の変化には経済紙のほうが敏感なのかもしれない。
ともあれ、30歳の日本人サラリーマン(プログラマー)のただの兄ちゃんが1週間の間に日経とWSJの2紙に取材されて、ちゃんと名前まで載ってしまった。そんな人って経済人にもなかなかいないんじゃないのか?
これには本当にびっくりした。何よりびっくりした(というか感動した)のは、実際にこのウェブサイトの中身を書いてくれていたのは、全米各地に住む野球ファン(とりわけドジャース・ファン、野茂ファン)で、彼らの情熱のこもった記事のおかげで、僕の作り始めたページは評判を呼び、メディアの目に止まったのだから。ひいては、彼ら自身が何より書くことを楽しんでいたことが、当初は間違いだらけの英語にまみれていた小さなウェブサイトの存在を、大きなメディアの紙面にまで持っていったのだから。
⚾️いつかまた「創る楽しさ」を
ウェブサイトを作る。ブログやnoteを書く。そういった創作活動は楽しい。楽しいけれども面倒くさい。仕事となればあれこれ文句も言われる。辛い。キツイ。それでも、やっぱりそこに作る楽しさ、書く喜びがあってこそ面白いものが生まれるんじゃないかなと思う。
本来、何かを創り出すことはまずは楽しくあるべきなのだ。その結果、何かの拍子に誰かに殊の外気に入ってもらえることがあるかもしれない。特にnoteで日々記事を書いているような「普通の人」にとっては、それがとても大切なんじゃないかと思う。
その後、私は個人でも仕事でも色んなコンテンツを作った。動画配信。有料課金サービス。携帯コンテンツ。ブログ。ポッドキャスト。ツイッター。フェイスブック。今も続けているものもあれば、今や消えてなくなってしまったものもある(残念ながら件の "Tornado Boy"もプロバイダの解約と同時になくなってしまった。データは取ってあるけど)。
いろいろなものを作る時に、あまり遠慮をしたことがなかったように思う。企画を人に説明する時に「自分はこういうものが作りたい」と素直に話す人だった。それは個人の思いつきで始めた "Tornado Boy" が、野茂選手自身の活躍と彼のことが大好きな多くのノモマニアの手によって大きな注目を集めるようになったラッキーな経験が少なからず影響していると思う。
まずは作ること。作りたいと思うこと。それを形にすること。考えてばかりじゃ何も生まれないし、誰も振り向いてくれない。何もない、誰もいないところに、小さな建物でいいから一丁目一番地を作ること。それがとても大切なんだと思う。またいつか、コンテンツ作りの楽しさを味わえたらいいなあ。
(記事リンク:note CREATOR FESTIVAL 企画 #つくるのはたのしい )
その後も、Torando Boy の運営を通じていろいろな人に出会った。スポーツ雑誌『ナンバー』に記事を書いているようなライターさんや近鉄時代に野茂選手を取材した経験のある記者さんともやり取りをしたりもした。実際に全米を旅していつも記事を書いてくれる人と会ったりもした。チョー楽しかった。
野茂選手のエージェントである団野村氏を紹介してくれる人がいて、野村氏にも会った。恐れ多くも「似顔絵やイラスト載せるので許諾が欲しい」と直談判した。豪腕代理人は苦笑して「悪い事してるようには見えないから、世の中でルールが定まるまではとりあえず」と言ってOKをくれた。
(記事リンク:偶然、この記事と同じ日に野村さんの記事が日経に)
その時に「テレビ局に勤めてるのになんで自分で取材しないの?」と訊かれた。
自分は普段は給料を計算するような事務方なんだ、とか説明しながら何か違うような気がしていた。「テレビやラジオとは違うものを作ってるんだ。そういうものを作ってる人は、世の中にはまだほとんどいないんだ」ほんとうはそう言いたかったのかもしれない。そう言うべきだったのかもしれない。
「じゃあ、野茂に会いたくないの?」とまた訊かれた。
「会いたいけれど、それは引退してからでもいいんです。いまは精一杯プレーする姿を世界中の人達と一緒になって追っかけていたい。それは今しかできないことだから」
こう答えたことをはっきりと覚えている。
30歳の私、25年前の私、割といいこと言う(自画自賛)。
テレビカメラとマイクを持って当の本人に取材して番組というコンテンツを作るのではなく、メディアを通じて応援しているファン同士がつながりあうためのコンテンツを作る。そういうことだったんだろうと思う。
あれから25年、私はまだ野茂英雄さんと会ったことがない。
風の便りで野球に関わる団体を運営していることは知っていたので、今の御時世、ウェブサイトぐらい作ってるだろうと思って、この記事を書く前に検索したら、あった。
こ、こ、コーヒー売ってるの?野茂くん!
コロナがおさまってお店が再開したらぜひ行ってみよう。その前にまずは通販で買ってみよう。そしていつか会える日が来たら、野球の話ではなくてコーヒーの話で盛り上がれたらいいなと思う。
(野茂さんは現在も野球選手への支援活動を続けておられます。念のため)
🍌
【追記 2020/12/8】
よく読ませていただいているハラダさんのnoteにある野茂投手の解説記事。そうそう、メジャーリーグに行く前だって凄かったんだから。バブルの絶頂期に現れて大活躍。阪神淡路大震災とオウム事件の年にメジャーに渡って大活躍。活躍のピークが世相とシンクロするのもスターの条件ですよね。
【追記 2020/12/11】
上の追記を足したことをハラダさんにツイートした時にnote公式さんにもメンションをつけておいた。すると、noteさんが『スポーツ記事まとめ』ページにこの記事を載せてくれて一気にアクセス数が増えた。これまでに見たこともないような数だった。
「へぇー、こんなこともあるんだね。ネットって一つのきっかけからどんどん騒ぎが大きくなるよね」なんて思っていたら「noteの集計壊れたんじゃね?」ぐらいのちょっとありえないぐらいのアクセス数になって、何気にリンクしてるページを見たら、ついに『note編集部お気に入りマガジン』にまで紹介されてた!(いちおう記念の魚拓として写真撮っといた。嬉しい!)
まさにこの記事で書いたような、一つの小さな情報発信がどんどん拡散されていく『わらしべ長者』的現象をふたたび経験できて楽しかった。
という訳で、このページを読んでくれた皆さんありがとう!これをきっかけに野茂英雄投手のことを知ってくれた人がいたら、めちゃくちゃ嬉しいです。