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【第10夜】消灯までショート×ショート

第10夜 「再来週の予定」

「幸せになりてぇな」

小学生になったばかりの俺と母さんを捨てて家を出て行った父は、酒に呑まれる度に口癖のようにこの言葉を言っていた。

父の記憶はほとんどないが、子供心に「自分と一緒に暮らしていることは幸せじゃないんだ」と絶望したことだけは鮮明に覚えている。

父はミュージシャンだった。
しかしミュージシャンと言っても路上で歌っていることがほとんどで、音楽での稼ぎは1日に数百円ほどの「売れないミュージシャン」だった。

今、父が一体どこで何をしているかなんて知る由もないが、15年以上経った今でも彼の名前を音楽番組で聴くことはない。とっくのとうに音楽なんて辞めて、他所で幸せな家庭を築いているんだろう。

俺は父の曲が流れてくるはずもないイヤホンを右耳にねじ込んで、寒空の公園のベンチに腰を下ろした。

「……幸せになりてぇな」

漏れるように口を出た言葉が白いため息と一緒に深い鉛色の空に消える。

この言葉を口に出すのはもう何度目だろうか。
まさか自分があの時の父と同じ言葉を口にする日が来るとは思ってもいなかった。

もっとも、俺には愛する息子も嫁もいないし、家族を捨ててもいいと思えるほどの夢もない。
そう思うとあの時の父よりもずっと不幸なのかもしれない。

俺はこの春、夢を捨てた。
医学部の不合格通知をすっかり貰い慣れてしまった俺は、最後と決めていた合否の結果を目にした時、悔しさよりも先に「やっぱりか」と思った。

そもそも本気で医者になりたかったのかと聞かれれば、それには少し言葉が詰まってしまう。

父が出ていった後に母さんが再婚した人が医者で、血の繋がらない俺を育ててくれた恩に報いるため、父さんのやっている小さな産婦人科を継ごうと思った。ただそれだけの動機だった。

しかしそんなに現実は甘くない。
3年の浪人の末、俺が得た称号は「ちょっと賢い私立の理工学部生」というなんてことないものだった。

「無理に病院を継がなくていいんだよ」と両親から言われる度に、期待されていない気がして、お前には無理だと言われている気がして、何度も反発した。

しかしその結果がこうだ。両親に無駄に予備校の費用を払わせ、俺はジェネレーションギャップで話の合わない歳下の学友と机を並べて、取り立てて興味もない機械工学を学んでいる。

医者になりたい奴なんて数え切れないくらいいる。それでもその夢を叶えるのはほんのわずかだ。もちろんそれはミュージシャンだって。

自分が医者になるという夢を諦めて以来、自身の幸せのために俺たちを捨てた父のことを思い出すことが増えた。

もしもいつかどこかで会う機会があるのなら、あんたはそれで幸せになれたのか、と問いただしてやりたい気持ちだ。

「幸せになりてぇな〜〜!」

さっきよりも少し大きな声で言った瞬間、その言葉を打ち消すように柔らかな楽器の音色が響いた。

誰もいないと思って独り言を呟いていた俺は恥ずかしさのあまり慌てて周囲を見渡す。すると少し遠くの方でショートカットの高校生くらいの女の子がアコースティックギターを片手に歌を歌っているのが見えた。

投げ銭を入れてもらう用のギターケースの横に「Natsuki」と書かれた紙が乗せられた譜面台が置いてある。

その文字を読んでいると歌っている最中の彼女と目が合った。するとなんと彼女はギターを弾く手を止めて、こちらに大声で話し掛けてきた。

「お兄さん!もうちょっと近くで聴いていきませんか!」

正直、路上ライブにはろくな想い出がない。関わり合いたくないというのが本心だったが、こうも直接話し掛けられると無下にもできない。

じゃあ1曲だけ、と言ってベンチを立った。

彼女の歌は決して下手ではなかったが、お世辞にもプロになれるレベルだとは思えなかった。それでも曲を聴かせてくれたお礼に、と軽く拍手をした。

さてもうこれで用事は済んだろう、と足早に踵を返すと、後ろから再度彼女に呼び止められた。

「……あの、もし良かったらなんですけど、今度ライブに来てくれませんか?」

彼女が差し出したチケットには再来週の日付が印字されていた。チケットノルマが全然達成できてなくて…と悔しそうな彼女に、精一杯の申し訳なさそうな表情で答える。

「ごめんなさい。その日バイトなんですよ」

もちろん何の予定がなかったとしても行く気なんてさらさらなかったが、彼女の悲しそうな顔を見て少しだけ胸がチクリと痛む。

しかし彼女は諦めが悪いタイプのようだった。

「この日のライブ、わたしが音楽を始めたきっかけの憧れの人と一緒の舞台に立てるんですよ。だから絶対に成功させたくて……」

知ったこっちゃない。こっちは自分の幸せすら見失っているというのに、なんで見ず知らずの彼女の幸せのために動いてやらなきゃいけないんだ。

そう思って強めにチケットを押し返そうとした時、チケットに印字されたとある文字に目が吸い寄せられた。

それはもう二度と見ることがないと思っていた名前だった。

(まだ夢…諦めてなかったのかよ……)

彼女は急に表情を変えた俺にチケットを無理やり握らせると、傍に置いていたギターを抱え直して微笑んだ。

「良かったらもう1曲聴いていきませんか?」

彼女が歌い始めた歌は、知らない曲なのにどこか懐かしい気がした。

俺はその歌を聴きながら、なんとなく再来週のシフトを代わってくれそうな人を見繕い始めていた。

Fin.

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