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ルフィの「夢の果て」に関する妄想的分析 -「ワンピース」1000話に添えてー

「ワンピース」1000話達成おめでとうございます。単行本が累計1億冊となったときには、こんなマンガが存在していること自体が信じられませんでしたが、今や4億6000万部のようです。もはや巨大な歴史ですね。記念すべき1000話目のタイトルは“麦わらのルフィ”です。泣かせますね。

 これは間違いないと思うのですが、作者の尾田栄一郎先生はこの巨大な作品を「ラスト」まできっちり構想してから書き始めています。いつ連載止められるかわからない少年ジャンプで、しかもほぼ処女連載作品に対してこのような向き合い方をしているのは脅威です。本当に天に選ばれて書いているといってよいでしょう。

 「天に選ばれて書いている」と今書きましたが、「ワンピース」が「ドラゴンボール」などその他のジャンプの大ヒット作品と大きく異なっているのは、作品全体が持つスケールのかなり大きなメッセージ性にあります。メッセージ性とは、代表的な手塚作品や宮崎駿監督のアニメなどに顕著ですね。私は「壮大なメッセージ性がある=よいマンガ」とは思っていませんが、大きなメッセージを伝えながら長編連載を書き続けるというのは大変困難なことです。なぜなら、連載のうちに読者がつかれてしまうからです。「ワンピース」がすごいのは、物語がどんどん複雑になっていくにもかかわらず、きっちりエンターテイメント性とコメディ性を作品が持っているところだと思います。

 さて話を戻します。もしこの作品が「終わりまで構想されてから描き始められている」のだとしたら、「ワンピース」というマンガのタイトルは実に不思議なタイトルで、なぜこのようなタイトルがつけられているのかについて直接的な説明はありません。だからこそ、作者はこの「ワンピース」というタイトルこそがこの作品の主題そのものだと認識しているのだと私は考えています。

 では、作中では「海賊たちが探し回っている人つなぎの大秘宝」として”比喩”されている「ワンピース」とは何か?それは「ワンワールド=1つの世界」ということだと私は想像します。

 本作品の長い読者はもうこの作品の持つ価値観が身についていると思いますが、この作品は「魂が自由であることの大切さ」「力によって人を縛ったり支配したりすることの危うさ」「理不尽な差別がない社会への希求」などを強いテーマとして描かれています。そのようなことを考えると「一つの世界(あるいは世界は一つ)」というコンセプトは、もろ刃のコンセプトであることがわかります。何故なら「世界は一つ」というコンセプトには、しばしば全体主義的思想や独裁思想などが紛れ込む危険性があるからです。一方で、「一つの世界」は、相対的に異なる規模の統治の力学のない、個人個人が魂の自由を求める力を有し、その自由意思で出来上がったつなぎ目のない調和の世界であるとも解釈できます。ジョン・レノンが「イマジン」で歌ったように

  天国はない ただ空があるだけ
  国境もない ただ地球があるだけ (“イマジン” 忌野清志郎 訳)

というようなコンセプトです。これは、人間の自由の獲得、統治からの解放の宣言にほかなりません。おそらく、これが「ワンピース」の正体です。

 ここで、「ワンピース」という物語が持つ全体像について私の理解を述べます。この物語は典型的なロードムービーです。すなわち、主人公及び主人公とその仲間たちが舞台を次々と変えていきながら、それぞれの舞台で体験する物語の変遷を描いていく、というスタイルです。実は対照的な手法としては「フォークロア(民話)」という手法があり、その代表的名作が「NARUTO」です。その意味では「ワンピース」の初期は「NARUTO」との対比の中ですごい作品になっていったのかもしれません。

 この「ロードムービー」において、共通のテーマが本作品を貫いています。それは、麦わらの一味が訪れる「国」や「国に準じる共同体」が、ある「支配」あるいは「差別」のしくみによって自由を奪われた状態にあるということ、それを見た麦わらの一味が、その仕組みに触れ、共感し、当事者意識を持ってそこであばれる、という物語の構造を持っています。

 尾田先生は、作品全体を通じてかなり「支配構造としての国、あるいは共同体」にこだわってこの作品を書き込んでいると私は思います。それは、故郷のゴア王国から始まり、魚人島、ドラム王国、アラバスタ王国などの物語に引き継がれていきます。「訪問舞台」の最終章ともいえる「ワノ国」では、国が持つ支配の仕組みの理不尽さ、国と国との取引や支配などに関する断末魔のような状況が描かれています。

 さて、ここからが本題です。ルフィの言う「夢の果て」とは一体何でしょうか?私は「秘密本」を読んだことがないので解説本でどのような予測がされているかは知らないのですが、昨日ネットで検索した感じですと、以下の二つが有力な説のようです。

    説1:前世界で一斉に宴を開く
     説2:海賊たちの独立国家をつくる

 私は以上のいずれでもないと思っています。以下の理由によります。
理由1: まず、この「夢の果て」は言語化されています。それは幼いころのルフィによって、そして全く同じ言葉がゴールDロジャーによって、です。その言葉を聴いて、あるものはゲラゲラと笑い、あるものは口あんぐりとします。そして、エースや、本1000話ではヤマトがそれを聴いて涙を流しながら「笑わないよ」と感動しています。だとすると、その言語化された「夢の果て」は、とてもありえないような荒唐無稽の景色ではないでしょうか?あまりの荒唐無稽さに笑ってしまうか、口あんぐりしてしまうか、あるいは、そのスケールの大きさと大きな理念に感動するか、というような言葉だったと推測します。説1や説2は、正直それほど荒唐無稽なことではない気がします。

理由2: 説1については「ワンピース=ワンワールド」の象徴としてあり得ることだとは思います。しかし、エースは死ぬときに「弟の夢の果てが見たい」と言っています。「夢の果て」の景色は、刹那的なものではなく、きっと長く続いている景色だと推測します。

理由3: 説2は、正直「もう一つ支配構造としての国ができちゃった」みたいな話になりかねません。この物語の大きな主題を考えると、世界が転覆するインパクトが現れるのではなく、単に世界にもう一つ並列のオルタナティヴな世界が誕生する、というのはやや主題からずれている気がします。

 では、「夢の果て」とはどんな景色なのでしょうか?私の予想は「すべての“国”がなくなっている世界」だと思います。

 この長い物語の中で、どうやら「夢の果て」の表象にかなり近いと思われるルフィの言葉があります。これは、ネットでもよく登場する有名な言葉たちです。

  支配なんかしねぇよ この海で一番自由な奴が海賊王だ!!」(506話)
   

  ガイモン「“ワンピース”はお前が見つけて 世界を買っちまえ‼」 ルフィ「ああ!そうする」(22話)

 前述したように、「ワンピース」においてルフィは「国」を人の支配や差別を生み出す巨大な構造の象徴としてみている気がします。さらには、この物語に出てくる「隔てられた4つの海」「世界政府」「世界会議」「革命軍」などのさまざまなアイコンは、支配と差別を生み出す構造、世界の分断、そして、そのような構造的な力に立ち向かう、自由を求める抗力、  いろいろな形で読者に訴えかけます。「ワンピース=一つの世界」という仮説が正しいとしたら、やはり「夢の果て」には「支配・差別を生む構造が転覆された状態」「一人一人が自由でいられる一つの世界」がそこにある状態、と考えると、この壮大な物語が持つあらゆる伏線をつないでいく気がしています。

 ルフィとロジャーは「海賊王になったら、この世界にあるすべての国を取っ払う!」といったのではないか、というのが現時点での私の妄想的分析です。「国」が存在しない世界。それは、すなわち支配や差別がない、生き物一つ一つがお互いを尊重し合える「一つの世界」なのです。ほぼ「イマジン」ですね。これは相当に荒唐無稽でガキのような妄想です。一方で、壮大で、多くの人に「そんな『夢の果て』があったらいいのに」と思わせる言葉かもしれません。

 「イマジン」は正直ギャグのような青臭い歌詞です。ジョン・レノンはたぶん冗談か皮肉を交えてこの歌を作ったと私は思っています。しかし、「イマジン」のなかで、ジョンはこんな風に歌っています。

   Imagine There is no Country. It isn’t Hard to Do
   (国も国境もない それほど難しいことじゃない)
   Nothing to Kill or Die for, and No Religion too
   (殺したり殺されたり、あとは宗教も存在しない)
   Imagine all the People Living Life in Peace, You
   (すべての人々が平和に人生を生きている様を想像できるかい?)
   You may Say I’m a Dreamer
    (こんなの夢かもしれないね)
   But I’m not the Only One
   (でもこの夢を見ているのはひとりだけじゃない)
   I Hope Some Day You’ll Join Us
  (いつか君も仲間になるよ)
   And the World will be as One
  (そして、ただ一つの世界がそこに現れる)

  どう考えても荒唐無稽で現実離れした景色ですが、きっとルフィならこの景色を見せてくれるでしょう。

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