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約束とゆらぎの間で生きる自己 --伊藤亜沙さんの「どもる体」感想、あるいは、不自由によって楽になる、ということについて--

まず、面白過ぎであまりにも早く読んでしまいました。そして、そのとんでもない鮮やかな分析に腰が抜けてしまいました。「どもる体」での伊藤さんの分析力と分析されたものを表現する美しさはちょっと圧倒的でした。正直、これほど鮮やかな質的分析レポートは初めてで、クラインマンを初めて読んだとき以上のインパクトだったのです。

伊藤さんの文章を初めて読んだのは「目の見えない人は世界をどう見ているのか」(光文社新書)で、それを読んだ時も「なんという切れ味!」と舌を巻いたのだけど、分析内容のぶっ飛び方としてのインパクトは腰を抜かすほどではありませんでした。今回は本当にぶっ飛んでいて、正直全然自分の中にはなかったものを「ほら、こんな感じだよ」としれッと見せられたような予測不能さ。しかもそれほど想定外であったにもかかわらず、完全に臨床家として「なるほど」モードになってしまったのです。いや、まいりました。

この本の内容についてはネタバレは極力避けたい(是非原著読んで!)のですが、その上で自分の中で発生した「ひょっとしたらこういうことなのか?」ということについて言語化したいので、極力「どもる体」についての直接な記述を避けつつ徒然に書いていきます。

とりあえずすごくビビットだったことは、「自分が自分として何らか外に出しているもののすべては自己表現であって、しかもそれはその場のインプット抜きに語れない」ということについて。ダンスもそうだし、目線をきることもそうだし、もちろんボールを蹴ったりギターを弾いたりすることも。その中でも「言葉をしゃべる」という行為は最も赤裸々なのだと思います。まあ当たり前なのかもしれないけれど、これは当たり前ではありませんでした。少なくとも自分の中では。赤裸々な「言葉をしゃべる」という表現は、たしかにだいぶん恥ずかしい。だから、言葉は操られないとちょっと人間やってられないというところがどこかにあるのかもしれない。この「赤裸々」というのは「生ものである」といってもいいかもしれません。生ものというのはすぐに腐るしデリケートだしどんな転帰を生むかわかりません。そんな状態で他者とコミュニケーションをとるということは、無防備極まるわけです。にもかかわらず、自分が他者に向かって表する表現は、他者との関係性の中でしか生まれえません。「あなたと私の関係の中で私の中身の一部がむにゅっと出ちゃっている状態」が、人が他者に向かって表現している状態なのかもしれません。

そんな自分の一部がむにゅっと出ちゃうのはとても自分に対して脆弱な状況を生みます。だからこそ、その前に人は自分を「調理」しているのかもしれません。あるいは、きれいなお皿に表現を「盛り付ける」ということを行っているのかもしれません。「言葉」と「調理」は強い親和性を持っていて、すなわちそれは「情報化する」ということなのだと思います。

本書に出てくる一つ一つの理論にぐっと来てしまったのは、私が言葉での表現をある意味生業にしていることとともに、バンドマン&シンガーソングライターであるということ大きく関係していると感じました。私はいろいろな立場で「しゃべる」ことがあるのですが、わりと意識的に「キャラ設定」をしています。たとえば、外来で患者さんとしゃべるとき、自分の属する組織の会議で司会としてしゃべるとき、講演会でいくつかの立場でしゃべるとき、私の言葉はそれぞれ流暢です。なぜなら、それぞれの場における私自身の「調理」の仕方を私は知っていて、それをうまく調理する技術を身に着けたからです。一方で、アジェンダが存在しないような普通の「おしゃべり」については、実は私は苦手意識を持っています。なぜ苦手なのかについて、私は昔から自覚があります。それは、「自由過ぎるから」です。

他者との間に何も制約がなく自由な状態というのは私にとっては苦痛です。苦痛という言い方はネガティブなので、言い直すと、とても不安な状態です。反対に、「このアジェンダについて語る」「自分はこの場ではこのキャラで他者と通じる」という制約は、わたしを楽にさせます。そして、この「楽」な状態を「自由な状態」と勘違いしてしまうのです。

この本で「それは確かにそうだ。そして今まで気にしていなかった」というものは、「リズムによって乗っ取られる」という感覚、そして「リズムは過去を残す」という感覚です。ここでいう「過去」とは、いうなれば自分の中にストックしてあって、タイミングよく引き出しから取り出すことができる「情報化された自分の意志」「情報化された自分の言葉」と私は解釈しました。その意味で「情報化する」ということは「安心を手に入れる」ということと同義なのだと思います。何も約束がないというのはとても自分を不安定な状態にさせます。なぜ不安定なのかというと、その状態が「生(なま)」に近いからです。反対に、制約は安心感を生みます。制約によって、自分は情報化した自分をアイテムとして出す条件発動をすることができるのです。

「約束」の度合いが分かりやすい形で表れるのはバンドでのセッションです。少なくとも、ロックというフォーマットの中でバンドでセッションをするとき、リズムはバンドメンバー全員を束ねる「枠組み」です。この枠組みがあるからこそ、自分は自分を「楽に」表現することができます。この「楽に」ということと「自由に」ということは異なる概念のようです。どう考えてもリズムも何もない状態で音を出す方が「自由な」状態であります。しかし、リズムという、ほかの人とつながるための枠組みなしに音を出すのははなはだ困難です。本当は、リズムがあってもなくても本当に他の人とつながっているかどうかなんてわかったのもではないでしょう。それでも、そこで「楽に」自分を出せる安心感は、リズムがない状況とは全く異なります。

面白いことに16ビートよりも8ビートの方がより束縛が強く、既視感も強く、その分「楽に」音を出すことができます。さらには「コード」があったり、「主題」があったりするとより楽です。一方で、「失敗」はより他者にバレやすくなります。私自身は16ビートで、さらにコードを決めずにだらだら演奏するスタイルは好きです。なぜ好きなのかについて考えたことがなかったのですが、きっとそのスタイルは、より8ビートだったり、コードや主題があったりする場合のセッションよりも「自分の失敗が他者からはよくわからない」ということと、「他者に合わせてもいいけれど合わせなくてもいい」という感覚が強いからだと思います。気が向いた時に他者の音を聴き、他者から見れば勘違いともとれるようなレスポンスをすると、そこにストレスが生まれ、そのストレスが新しい発見を生んでいく、というような瞬間は、コード進行がかっちりした8ビートを演奏しているときにはなかなか生まれるものではありません。逆に、そのようなタイプの曲を演奏しているときに感じているのは、「共にノッている」という安心感や、シンクロすることで初めて得られる高揚感です。どちらもキモチのいい感覚です。

セッション好きのミュージシャンであれば、伊藤さんが本書で言っている「自分を乗っ取られる感じ」はなんとなく感じることができると思います。演奏に「枠組み」が設定されることで、演奏者はより「楽に」演奏できますし、それは、「ストレスがないこと=自由であるということ」という意味であれば、「自由に」演奏することができるのですが、そのストレスの無さは、過去の情報化された自分を引用しているために出てきている感覚なのではないかと思うのです。熟練した演奏者がぶち当たる壁として、「自分をコピーしている自分」を発見したときに演奏できなくなってしまう、というジレンマがあります。しかし、それもまた自分。たぶんどっちが自由かどうかというのは「あれかこれか」ではかることができるものではないのかもしれません。情報化された自分を自分の一部にミックスして今の自分を表現するということは、ひょっとしたら自由を放棄していることなのかもしれませんが、だからダメなのか、といわれれば、きっとダメではありません。「生」としての自分と、「記憶」としての自分にはきっと選別があるのですが、実際「セッション」というコミュニケーションの場において、「ああ、これは反則だ」と感じる表現をしてしまうことは少なくないのですが、それ以外に「これは真の自分の表現だ!」ということを確信をもって奏でるというような瞬間を味わったことがありません。「自分をコピーしている自分」もまた「自分」なので、その行為の多くは意図的ではありませんし、それをもって純粋ではないとも不自由だとも正直思いません。しかし、だからこそこの部分について向き合ってみるということがすごく大事なのかという気がしました。

もっとも不自由で、かつ安心できる表現とは、楽譜をなぞって演奏することです。クラシック音楽を愛している人たちからはせっかんされそうですが、楽譜というのは、表現を情報化するツール、すなわち、自己が生のままで出てくることを最大限に無効化させるツールなのだと思います。そうでなければ「シンフォニー」を奏でることはとても困難です。

ここまで書いて、この本で伊藤さんが展開して要ら理論が「オープン・ダイアローグ」とつながってきました。「開かれた対話」のエッセンスはバフチンの言う「ポリフォニー」にあります。精神科医の斉藤環さんが「ポリフォニーの逆はシンフォニーだ」と言っていましたが、この感覚は、私が本書を読んで感じた「制約がなく、生の不安感にある人同士が交わることで生まれる反応=ポリフォニー」と「約束によって自己が情報化された状況の中で感じる一体感=シンフォニー」との対比を表していると思いました。オープン・ダイアローグにおいて「患者のことについて、事前にスタッフ同士で決して打ち合わせをしない」というのは、フリーフォームのセッションを考えれば当然のことです。もし自分以外のメンバーがコード進行や主題を打ち合わせしていた状態でセッションに望んだとしたら、自分は自分を表現することに対してかたくなな状況に追いやられてしまうでしょう。さらには、以前感想文を書いた「中動態」ともリンクされてきます。面白かったのは国分さんの「中動態の世界」でも、本書でも終盤にメルビルの「ビリーバッド」が引用されていたことです。「確固たる自分」が持つ矛盾を90度ずつ異なった視点で切り取られたのを見た気がしました。

おそらく、「約束」も「揺らいだましにておくこと」もどちらも大切で、どちらも「自分が自由に他者とコミュニケーションできること」にとって欠かせないものなのだと思います。制約からまったくフリーな体に対して責任を取るということはあまりにもしんどいです。そこに「約束」や「過去の自分」を挿入することで、人はより楽に自分を表現し、他者とつながりやすい状況を作ることができます。一方で、焼き付けられる自分、情報化された自分に自分は気が付くことはできません。知らない間に「乗っ取られる」自分とか人生というのは、やっぱりイやな感じです。結局、私がIoTだとかアマゾンの「おすすめ」とかについて「怖いー」と感じているのも、自分がより自由になっているような感覚がぎちぎちの約束によって成り立つのだとしたら、かなり怖い世の中になってしまうかもしれない、という感覚からきているのだろうと再確認しました。そして、NHKでチコちゃんが「ぼーっと生きてんじゃねえよ!!」と怒っているのにみんなが共感しているのもこのあたりのことかもしれません。死んだように生きることでしか生きていられない状況というのはだんだん大きくなっている気がします。

以上、結局全く感想文と墓となる文章になってしまいましたが、「どもる体」に腰を抜かして、インスパイアされた興奮を情報化したらこうなった、という理解でお願いします。最後に、実は最近もう一度名作「べしゃり暮らし」(by 森田まさのり)を読み返していて、その中に出てくる「相手をリスペクトできないときには安心してボケられない」ことや、「面白いから笑うのではない。笑うから面白いんや」という言葉がずっと心にやんわりと刺さっていたのです。関係性の中に自分はある。そして、身体とこころという分類そのものに無理があって、さらにはそこに主従関係が存在する(こころが身体を操っているというような)ことに無理があることについても、この「どもる体」から大きなインスピレーションをいただきました。伊藤さんの、現代社会を洞察する鋭さはホントヤバいです。


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