ミイラ展とアンパンマンミュージアムのお話
11.26
ミイラ展を観に行った。
テレビを見ていたら湿地遺体を展示する様子が流れて、Twitterにミイラ展行きたいと呟いたら友達が拾ってくれた。ありがたい。
動物の骨や剥製を見るのが好きなので、同じような心持ちだった。
知的好奇心という名の興味本位。プラス背徳感。割と下世話な気持ちでいた。
皮膚は乾いて木のようになっているけれど、髪の毛や爪は生きている人間そのもので罪悪感が芽生えた。こんなにまじまじと見てたら目を覚ましちゃうんじゃないの、なんて思うほどだった。
生贄としてのミイラや子どものミイラはさておき、展示されているミイラの背景にあるのは悲しい歴史ばかりではない。自らミイラとなるべくしてなったもの、死者の魂が帰るために作られたものなど能動的かつ文化的ミイラがたくさんあった。
人間が死んで残された肉体もやがて朽ち果てて、最後に残るのは生きている人間である。
人を失うこと、自分もいつかは死ぬということ、そういった悲しさや恐ろしさを乗り越えるために肉体を美しいまま残そうとすることは人間らしい考えだと思った。
何千年も前のミイラを科学の力で解明できても、医学が発達して長生きできるようになっても、死に対しては為す術もない。今も変わらずお墓を立てたりお葬式をしたり神様に縋ったりして、なんとか死の恐怖を克服しようと足掻いている。人間ってエゴイスティックで可愛いね。
その後ホッピーを飲んだ。
11.29
アンパンマンミュージアムを観に行った。
アンパンマンに肩を抱かれて写真を撮ってもらった。アンコラコアンコラ親子の壁画と写真を撮ってもらった。幸せであった。写真に写る私は5歳児の顔をしていた。
アンパンマンミュージアムは、アンパンマンの歴史やキャラクターについて学べる要素は一切なくアンパンマンの世界の中で遊ぶ子どもを親が写真におさめるための空間だった。食べ物もグッズも高い、チケット代も高い。でも子どもはそんなこと知らなくていいのでこれでいい。
アンパンマンの世界線だと、彼らは賃金をもらっている様子がないのでここに落とされたお金でアンパンマンの世界が発展していけばいいなと思った。
アンパンマンの世界にも悲しみや苦しみがあって、きっとジャムおじさんもバタコさんも早起きするの嫌だなと思う日もあるだろうし、ドキンちゃんだってバイキンマンにもっとフランケンロボと遊んでやれよ親だろと言ってしまいたくなる日があるのかもしれない。でも子どもはそんなこと知らなくていい。まだ知らなくていい。
純粋な気持ちで見なくてもアンパンマンは優しくて、いつでも正しくて、やなせたかし先生が亡くなってもアンパンマンは生き続けてくれる。
いつも優しさや正しさだけ請け負ってくれてありがとうね。私たちはアンパンマンに何もしてあげられないのに。
その後ビールを飲んだ。
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