二度と見たくない傑作
ジブリアニメの「火垂るの墓」が全世界190カ国でNetflixで見えるようになったらしい。
俺は「火垂るの墓」を昔に1回だけ見た。
世の中では「火垂るの墓」は「二度と見たくない傑作」と言われてるようだが、確かに俺も2回目は見たくない作品だ。
なぜならバッドエンドだからだ。2回目を見たらまた悲しくなるからだ。悲しい涙のおかわりなんて、何度もいらない。
それに日本のNetflixでは「火垂るの墓」を見ようと思っても見れない。
なぜならそれは、動画配信サービスのHuluの日本事業を日本テレビが買収してるからだ。日本テレビはジブリアニメの日本でのテレビの放映権利を持ってるから、HuluのライバルでもあるNetflixの売り上げに協力するわけがない。大人の世界は本当に複雑だね。「火垂るの墓」が生まれた日本では自由に見れなくて、海外の人はNetflixに入りさえすれば、いつでも自由に「火垂るの墓」を見れるなんて、なんと不公平な大人の世界。
しかし、そんな不公平さを嘆いてる日本人の俺は「火垂るの墓」を当然のごとく見てないのに、なぜか今「火垂るの墓」で泣いている。
映画自体を見てないのに、なぜ泣いてるかと言うと、「火垂るの墓」を見た海外の人の泣いてるリアクションをYouTubeで見て、俺も一緒に泣いてるのだ。
俺の涙腺はなんと弱々な涙腺なんだ。年取ったおじいちゃんのお尻のおちょぼ口並みの締りの無さだ。まさに号泣だ。涙腺の堤防決壊。海外のお兄さんお姉さんの涙に釣られて、このジョージは映画も見てないのに号泣してる。
それに今になって知った事があった。
当時の「火垂るの墓」のポスターの2人の兄妹の周りには蛍の光が描かれているが、本当は空に米軍の爆撃機B29のような影が薄く描かれており、2人の周りに描かれた光は蛍の光だけではなく、本当はB29から落ちて来ている焼夷弾の火の光なのではないかという考察だ。
だから題名は「蛍の墓」ではなく、空から火が垂れる意味の「火垂るの墓」なのだとか。
この事を知った上で、さらに海外の人の泣いてるリアクションを見て、なぜかジョージまで号泣。
この涙は俺が小学生の時に好きな女の子が地元の夏祭りに行くと小耳に挟み「ならば俺も!」と町一番の夏男ファッションに身を包みながら生まれて初めて地元の夏祭りに出向き、その好きな女の子の目の前を覚えたてのブルックリンステップで華麗に通り過ぎた瞬間、好きな子から「ダサ〜〜〜イ!」と、一言吐き捨てられた時と同じぐらいの悲しき涙だ。
俺の精一杯の夏男ファッションを好きな女の子に小馬鹿にされたのだ。俺はその日の夜、夏の星空に浮かぶ無数の星の数よりも数多い涙を流して号泣した。
とにかく「火垂るの墓」の涙腺への攻撃は半端ないものがある。
しかし、今の俺の目は映画を実際に見てないのだ。
それなのに「火垂るの墓」を見て泣いてる海外の人の姿を見て、それで俺は号泣している。俺の姿を食事に例えるなら、びっくりドンキーでライスだけを注文して、他の客が食べてるコロコロステーキを見ながら、ライスを何杯もおかわりしてるようなものだ。もらい泣きと書くと印象は良いが、こうやって食事に例えてみると、俺の姿はまさにホラー……
しかし、それにしても俺の涙はなんと安っぽいのか。俺の涙はもやしか?もやしの値段は全国平均31円の激安だぞ。俺の涙はトップバリューのもやし並に安いのか?
俺は「火垂るの墓」を昔にテレビで一回見ただけだったから、あまり内容を覚えてなかったが、改めて内容を調べてみたら本当に悲しい話だ。
内容的には、日本もアメリカもどちらも責めない内容だからか、反戦映画ですらないのかも知れない。
幼い妹の節子と、まだ中学生である兄の清太の2人で必死に肩寄せあって生きようとする物語だ。何の罪の無い2人の兄妹が時代の波に飲まれて、そして飢えて死んでいく。
アメリカ人からしたら、映画の中でアメリカを責めてないので、反論する余地も無しに戦争の愚かさだけが心に突き刺さるらしい。
そしてここが日本人と海外の人の違いと言えるかも知れないが、親類の家で冷たくされ、山の穴の中で暮す事を2人は選ぶのだが、海外の人からしたら生きるか死ぬかの究極の状況になるぐらいなら、プライドを捨ててでも、親類の家に世話になるべきだという意見が海外勢の中には数多くあった。
昔の日本人的な「生き恥を晒すより死を選ぶ」というような死生観は海外の人にはあまり理解されないのだろうな。
俺もそうだ。人に煙たがられてまで、人の世話になどなりたくない。
俺のような人間は戦時中なら、あっという間に命が絶えてただろうと思う。今までの人生、人に助けを求めるより自分でなんとかしようとする人生であった。人を押しのけてまで自分の権利を主張しない人間。
「ジョージちゃんは何を考えてるか分からない……」
こんな言葉を大真面目に言われた事が過去に何回もあった。
しかし、昔の俺の本当の心は心寂しくて、誰かに構ってほしくて、孤独が怖くて、でも、それなのに人と関わる事が怖くて、自ら人を避けてしまう悲しい心だったんだ。
図々しい人間は厚顔無恥で無責任で、他人から嫌われると思い込んでた思春期の俺。
しかし、心の図々しさは時として人と人との縁を繋ぎ止める。
一番、人との繋がりを築くべき多感な時期に俺には人の心に踏み入るほどの図々しさがなかった。だから、人との繋がりが一切持てぬままに、一人で厳しい社会の大海原に漕ぎ出すしかなかった。
そして、ここで俺は考える。
自分の為には図々しく生きて来なかった俺だが「火垂るの墓」の節子のような可愛い妹が俺にいたら、俺はどうしてただろう?
恥もプライドも投げ捨てて、泥水すすってでも節子を喰わせるために、他人に頭を下げてまで必死に助けを求める事が出来ただろうか?
「火垂るの墓」の原作は作者の野坂昭如氏の実体験に基づく短編小説だったらしいが、実際の野坂氏は作中の清太のように妹に優しくなかった。それどころか、妹の世話を疎ましくも感じており、泣き止ませるために暴力まで振るっていたという。
最後には食料事情がさらに厳しくなり、妹に、ろくに食べ物を渡さず、その結果、妹は誰にも看取られず餓死してしまった。野坂氏はその後悔から、せめて小説の中だけでも妹に優しくしてあげたいと、その後悔の想いを清太に託したと語っている。
これを知って、俺は野坂氏を責めれない。なぜなら、誰の心の中にでもある残酷な心が、戦時中の極めて厳しい状況だから顔を出してしまったとしか思えないからだ。
「飢え」という言葉すら想像出来ない、今の恵まれた日本の状況から、その当時の自分の行動に俺は責任など持てない。
人間には三大欲求というものがある。
「睡眠欲」
「食欲」
「性欲」
この3つだ。
一番強い欲求と言われてるのが睡眠欲だが、これはなんとでもなる。寝る場所さえあればいい。性欲も解消されなくとも生き死にには直接は関係ないだろう。
問題は三大欲求の中で2番目に強い欲求とされてる食欲だ。これは食べ物がないと満たされない。満たされないと死に直結してしまうので、この欲求を解消するには人間はなんとか自分から動いて食料を探さねばならない。
国連の発表によると、世界の9人に1人が飢餓状態で、子供だけで見ると4人に1人が飢えに苦しんでると言われている。
日本には関係ない話だと思われるかも知れないが、今の日本でも餓死者は出ている。しかしそれは障害を持った幼い子が母親の急死によって餓死したり、高齢者が動けずに餓死したりなどの特殊な例だと思われる。
今の日本で意思疎通が出来て、自分で動ける人ならば、いくらお金が無くても食料を得られないという事はない。国に支援を求めれば食料は絶対に得られるのが今の豊かな日本だ。
しかし、清太と節子が生きた時代は簡単には食料が得られなかったのだ。
今の俺は実家暮らしで、決まった時間に母親がご飯を作ってくれる環境だ。
こんな甘ったれた人間が、節子のような可愛い妹を守る為に必死に食料を求めて、図々しく生き抜く事が出来ただろうか?
俺が「火垂るの墓」に対して流す涙とは、
「あー良かった!こんな時代に生まれなくて!」
と、こんな自己保身にまみれた卑しい心が含まれてる偽りの涙なんじゃないのか?
それとも、今の豊かな環境で誰も守らず、毎日を自堕落に生きてる自分への自戒の涙なのかも知れない。
「火垂るの墓」は間違いなく「二度と見たくない傑作」でもあるが、
「二度と見たくはないが、絶対に忘れてはいけない傑作」でも、あるのだ。
「節子よ………ジョージ兄ちゃん、もう頑張れへんねん。もう、心が死にそうやねん……」
「何でジョージ兄ちゃん、すぐ死んでしまうん?」
俺にも、そんな風に心配してくれる、節子のような可愛い妹がほしかった……
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