毛穴
これは夢だな、と夢のなかですぐにわかる夢がある。
夢のアサミは最前のかぶりつき席に座ってきらきらの舞台を見上げている。宵子さんのオナニーベットは最強だ。ピンクの照明、香水のスパイシーな甘い匂い。まぶしい。盆の回転に合わせて客たちの頭もふらふらと動く。アサミはいつも宵子さんの指先に夢中だった。魔女みたいにきれいにのばした爪に、演目に合わせたジェルネイルが施されている。宵子さんはだいたいいつも3個の演目、それも全然雰囲気の違う演目を持ってくるけれど、その3つすべてに完璧に似合うネイルなのだ。水色の爪をのせた指先が胸を撫で腹を撫で、ゆっくりと足の付け根に伸びていく。繊細な指先と、ワイルドな黒い隠毛とのコントラストがほんとうに好き、と思う。
目を開けると予想通りに毛穴が鼻先で体を丸めて眠っている。毛穴というのは長毛の黒猫のかたちをしたアサミのペットだ。写真を撮ると真っ黒い穴のように写る。そしてたくさんの毛を撒き散らすからとそんな変な名前をつけられてしまった。毛穴は宵子さんからもらった、アサミの宝物である。
宵子さんの夢を見ては毛穴との出会いを振り返っているような気がする。
アサミはその日、定時に仕事を終えて渋谷の劇場に向かった。宵子さんの出番は2番。ネイルは火のような赤だった。4回目を最後まで見ると終電ぎりぎりで、小走りに駅に向かう。地下鉄の改札に向かう階段を下りる途中に「アサミちゃん」と声をかけられた。最初アサミは自分が呼びかけられたことに気づかなかった。アサミというのは彼女にとって、劇場で写真を撮るときおねえさんたちに申告するための名前で、劇場の外では自身と結びつきのない名前だった。同じ声が音量を上げて、アサミの本名をフルネームで呼ぶ。それでやっと立ち止まった。階段を降り切ったところだった。振り向いて見上げると、階段の上からこちらを覗き込む宵子さんと目が合った。
嘘。と声に出していたかもしれない。いちばん好きな踊り子さんに呼び止められたことを信じられずに固まってしまったアサミの視界で、宵子さんはゆっくりと階段を降りた。ショーの一部みたいだった。
「ちょっと話があるんだ」と宵子さんは言った。写真の列に並んできくよりも低い声だ。「部屋、ペット可なんでしょ」
宵子さんはカバンから黒い毛の塊を取り出した。片手で持ち上げられた毛の塊にはふさふさのしっぽと耳があり、猫だということは察せられたが、死んだ猫だとアサミは思った。宵子さんの手つきに、生き物を扱うおもみのようなものを感じなかった。
「あげる」と宵子さんは死んだ猫をアサミに渡す。
猫は生きていた。あまりにも抵抗なく宵子さんに掴まれていた毛の塊だったけれど、アサミの腕のなかではいくらか身じろぎをした。あたたかかった。
「ペット可だけど部屋は散らかりまくりで汚いし、とても猫と暮らせるような状態じゃない。実家にいたころも生き物なんて飼ったことなかったから、トイレや餌のこともなにもわからないし」と言ったとは宵子さんのほうだった。アサミの考えをそのまま読み上げたようだった。
「あたし、魔女なんだ」と宵子さんはニッと笑って見せた。
ああ、終電はもう行ってしまったな。とアサミは思った。
宵子さんに導かれるまま、ふたりは駅に近い喫茶店に入った。薄暗い店内の様子をよく覚えている。それぞれのテーブルに蝋燭が置かれていた。LEDかと触ろうとしたら本物の火だった。
宵子さんは低めの心地よい声色でたくさんのことを語ってくれた。アサミが初めて宵子さんのいる香盤を見たときのことや、今日の演目について。オープン曲はどうやって決めたのか、演目をどう作っているのか。楽屋の暮らしはどうなのか。アサミはほとんど、相槌すら打てなかった。まだずっと混乱していたのだ。
「そういうわけであたしは踊り子を辞めます。今週で終わり。ごめんね」と言われたのははっきりとききとれた。
「嘘」と今度ははっきりと声に出してアサミは言った。
「嘘じゃないよ。来週からのコース全然知らせてなかったでしょ。あれは知らせてなかったんじゃなくて、ないんだよ」宵子さんはからかうように言う。
「嘘がいいです」
なんでですか。とか、もっといっぱい見たかったです。とか、もっとお金をいっぱい渡したかったのに。とか、なんであたしに言うんですか。とか、いろんな気持ちがアサミを襲う。本心のわからない微笑みを浮かべる宵子さんに「嘘がいいです」ともう1度言ったときには、涙声になってしまった。
「ごめんね。理由はね、魔女でちょっと人間とは寿命が違うから、そろそろきびしくなってきたかなってところ。あたしもちょっと肩入れしすぎて、お客さんと一緒に歳をとりたいみたいになってきちゃって。崩れる前にやめたかったの」
魔女だっていうのがまず嘘みたいなのに。
「そうだね。でも、魔女だからアサミちゃんが考えてること、わかるよ」
そういえば、本名だって住んでる賃貸がペット可なことだって、宵子さんには教えていなかった。アサミは宵子さんの言うこと全部を信じることに決めた。涙があとからあとからこぼれた。
「宵子さんのショーが本当に好きでした」
「ショーだけじゃないでしょ?」
「全部好きでした」
言わされたのが恥ずかしくて、アサミは泣ながらむしろ笑えてきてしまった。
「そう。あたしもアサミちゃんが笑顔で見てくれてうれしかった」
「素敵な時間をありがとうございました」
笑いながらまた涙を流すアサミの頭を、テーブル越しに宵子さんの手が撫でた。涙がすっと止まった。魔法だよ。と宵子さんは言った。
そこは駅で、ちょうど終電が来たところだった。目の前にあったホットココアの湯気が目の前をまだ漂っていたけれど、すぐに消えてしまった。
「乗って。遅れるよ」と宵子さんはアサミを急かす。「猫、大事にしてね。生き物飼ったことなくてもその子なら平気。死なないから」
「死なない?」
「うん、アサミちゃんがあたしを忘れない限りね。餌もいらないし、だからトイレも必要ないよ」と宵子さんは今度は劇場できく高い舌足らずな声で言った。
「呪いじゃん」とアサミも笑っていた。宵子さんの魔法のせいなのか、涙は出てこなかった。
「そうだよ。一生のね」と宵子さん。「でも死なない生き物を飼ってるといろいろ不便があるかもだから、そのへんのことはユウカちゃんに相談しなよ。あの子、知恵が働くでしょ」
そんなことまでわかるのか。とアサミは面食らう。ユウカはアサミの彼女で、一度だけ一緒に劇場に行ったことがある。
「それじゃあ」
「うん、元気でね」
電車のドアが閉まりきると、ドアの向こうにはすでに宵子さんはいなかった。猫の入ったトートバッグが脇腹に触れてあたたかい。鳴いたり暴れたりせず、猫はずっと静かだった。アサミは電車内でグーグルマップにさっきまでいた喫茶店を探す。予想通りに見つからなかった。
その後、アサミは宵子さんに言われた通り、死なない猫の飼い方についてユウカに相談をした。ユウカは全然信じてくれなかったけれど、冗談の話としてアドバイスをくれた。いくら死なないって言っても、餌もトイレも用意せず猫を部屋に閉じ込めてるひとって相当だと思うから、誰か部屋に人をいれてもあやしくないように、猫餌と猫砂くらいは準備しといたほうがいいんじゃないのかな。あと、今度ぜったい見せてね。猫好きだけど親が無理で飼えないから、恋人が飼い始めるの、めちゃ嬉しい。
今でもユウカは毛穴の死ななさを理解していなくて、じぶんでアドバイスしたくせにダミーの猫餌と猫砂に騙されている。でもそのうち一緒に暮らそう的な雰囲気があるから、そうしたらわかるだろうとも思う。
「宵子さんが夢に出ているうちはお前も安泰だぞ」と毛穴のしっぽの付け根をぽんぽんしてやりながらアサミは言う。これをどこかで宵子さんがきいていたら恥ずかしいなあと思って、だって相手は魔女なんだから、ありえない話ではないでしょう。ちょっとだけ照れる。
(おわり)
※作者はストリップのファンですが、作中に登場する「ストリップ」は実際の劇場の様子を描いたものではありません。
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2019年2月発行のパオホン11月号「生き物」に寄稿した短い小説です。