この世の果てまで。
「ねぇ、私、今日のこと一生忘れないと思う」
その言葉で、お台場へ向かうレインボーブリッジで、彼女を見た。疲れ切っている横顔が、ライトでほんの少し明るく照らされ、安堵感が漂う。助手席で堪えるよう硬く手を握りしめているその不安に寄り添うように、片手を重ねる。
夜のドライブに彼女を連れて来た。
全て上手く行ったんだ。もう彼女を縛るものはない。逃げ切ることが出来た。
そう思っていた。
中高一貫校で、一緒だったのがMだ。お互いに親から決められただけで、特にこの学校じゃなければならない理由など当然なく、強いたレールの上を歩くのが、この先の自分の"運命"なんだろうと、何処か客観的に俯瞰していた。勉強なんて手段のひとつ、この世を上手く渡る為には、とりあえず便利な手段なだけ。比べ合い優劣をつけられて、出荷前の商品のように、不良品になることを恐れながらも、眩い悪戯も捨てがたい。学校で最初に覚えたのは"要領良く"だ。狭い抑圧で吐き気がするんだけど吐きはしない。それなりに模範生だった私達は、学期末のテストよりも「ねぇ、帰りに映画観に行こうよ」だった。
何処か大人びて見られる所も似ていたのもあって、さらに仲良しになった。帰り道に街のパーラーで寄り道していたある日に、学校の先生に見つかって、後日職員室に呼び出されて説教をされた。「お腹が空いていただけなのに、何故、咎められなくてはならないんですか?」とMが泣き出して、わたしも『そうなんです、彼女の家は両親が共働きだから、夕飯はいつもひとりなんです』と示し合わせたように泣き出した。勿論、演技だ。男性教員が気まずそうに慌てる。「もういい、わかったから帰りなさい」当然のようにその帰り道も寄り道した。大人になるって、面倒な過程が多い。
わたしの父親は忙しくて家には殆ど居なかった。何かの際に連絡して出て来るのは、常に秘書を通してで、高校の卒業旅行に海外へ行く代金ですら、封筒のみを渡された。再婚した継母は、贅沢ばかりを最優先していれば、満足している馬鹿で愚かな女だと思っていた。
Mの両親は某娯楽産業の経営者だった。ある時、教室で、「成りあがりのくせに」と揶揄する意地悪なクラスメイトに、彼女は先生の机上にある花瓶を丸ごと投げつけた。ガラスが砕け散る音と鋭利な破片に透明な液体が床にとどめを刺す。廊下を勢いよく駆け出して去る後ろ姿を必死に追いかけて、手首を掴む。Mが凄まじい表情で真っ赤な顔を向けてこう言った。
「貴女には、私の気持ちは絶対に分からない」と。わたしは、『分からない、分からないけど、でも寂しさは分かる」と答えた。
嗚咽音だけが響く。
若さは、明るく伸びやかで柔軟性を讃えているように見えて、実に脆くて壊れ易い。"ガラスの十代"とはその通りで、其れを如何に、傷付けないように、割らないように守り抜く事が困難であるかを、私達は"分かっていた"はずなのに、同時に"知らなかった"んだ。
高校から親元を離れて、千葉の親戚の家に世話になっていた。親切だけどお金主義な人。
夏の旅先で父親が出した一万円札でアイスクリームを買う時に、子供に選ばせているようにして、一番安いものを選ばせる浅ましさ。わたしだけじゃなく、自分の子供にまでだから呆れる。お釣りは返さず自分の懐に入れる。気づいてからは、ワザと違うものを選んでいた。というか食べたいアイスを選ぶよりは、"思惑通りに行かない時の人間の表情"をみてやろうと言う下衆な遊びになっていた。人間の卑しさをみる事で、精神のバランスを取る、どんどん内面を掘り下げてゆく。
Mが結婚をすると言い出したのは、わたしが服飾を学ぶ最中の卒業制作に追われていた頃。以前、唐突に紹介されたあの男だと知った。友達の結婚を反対する理由も権利もあるだろうか?友達だからこそ、彼女の苦悩を知る者として、応援しようと心から思った。結婚式でのMは幸せな花嫁そのものだった。夫となった男の胡散臭さえ霞むくらい。
アパレルメーカーに就職し、他者から見れば煌びやかな世界の中心にいる人種として扱われる事にも慣れて、友人を亡くし、さらに人生の光と影の濃淡が濃く加速してゆくのを、暗黙にやり過ごす過度期に、Mから連絡が入る。慌てて待ち合わせ場所に、車で向かった。慌てたのは、Mが泣いていたからで、強がりな彼女が連絡して来るのは、只事では無いはずだからだ。
新宿らんぶるのドアを抜けると、重厚なベルベット調のソファにシャンデリアの灯りに包まれたMを見つける。痩せてしまい左側のこめかみから頬に痣があるのが、化粧をしていても判る。ひと目で状況がわかり怒りに震えた。身体は怒りを感情に乗せ伝えるものなんだと知る。淡々と彼女の話しを聞くにつれて、彼女をこのまま帰す事は出来ないと判断して、話したら楽になったからと夫の元に戻ろうとする意志の強さに涙が溢れて仕方がなかった。その流れで新宿警察署に相談をして、シェルターというものを紹介され、被害届を出すように言われたが、Mは拒否した。夫婦間のトラブルには、直接、警察は介入出来ないとも言われた。歯痒さに負けてる場合じゃない。
『もう頑張らなくていい』何度も何度もわたしは言った。『あなたは悪くない』と。
Mの夫はまだ帰宅していない。
決行するならば今だ。
Mを助手席に乗せて、新宿三丁目付近より、杉並区にあるMの自宅に、アクセルを踏み込んだ。車内で着いてからのシミュレーションをし、必要なものだけを持ち出し逃げようと、すぐに110番出来る準備もして道を急ぐ。近づくにつれてMの表情が、強張り無表情になっていくのが分かった。「貴女に迷惑をかけてごめんね」を繰り返すので、『あのね、わたしも生きているけど死んだような感覚で毎日を生きている。だから、こんなの迷惑でも何でもないし、死んでるならば、ついでのようなもんよ」と言った。本気でそう思えた。友達ひとりも救えない人生ならば意味がない。もう二度と同じ思いはしたくない。
全て上手く運んだ。
そのまま逃避行するように、携帯の電源をお互いに切って、夜のドライブに疾走した。キラキラな星空を観ようとお台場の人工海岸へ。
自宅から持ち出した小さなラジオを彼女は手にしていた。砂浜に並んで座り込み、パーソナリティの声に集中していたら、
Vonda Shepard の"The End of the World"
が流れ出した。
「人工でも、それなりに形になるものね」
『ふふ、人間もね』
「ね、この砂浜、幽霊出るんだってよ…」
『え、そうなの?でも本当に怖いのは…』
人間だよね!と顔を見て笑い合った。
恋人同士で眺める海よりも、うんと綺麗だった。
永遠に続くような時間と、星空。
人工でも構わない。
この曲を聴くと切ない。
Why does the sun go on shining?
なぜ太陽は今も輝いているの
Why does the sea rush to shore?
なぜ波は今も岸に寄せてくるの
Don't they know it's the end of the world?
この世界が終わったのを知らないのかしら
'Cause you don't love me anymore
あなたがもう私を愛してくれないのだから
Why do the birds go on singing?
なぜ鳥は今も歌っているの
Why do the stars glow above?
なぜ星は今も空に昇るの
Don't they know it's the end of the world?
この世界が終わったのを知らないのかしら
It ended when I lost your love
あなたの愛を失ったときに終わったの
I wake up in the morning and I wonder
朝 目覚めて不思議に思うの
Why everything's the same as it was
なぜ全てが同じままなのか
I can't understand, no, I can't understand
分からない 分からないわ
How life goes on the way it does
こんな風に人生が続いていくなんて
Why does my heart go on beating?
なぜ私の胸は鼓動を続けるの
Why do these eyes of mine cry?
なぜ私の目からは涙が止まらないの
Don't they know it's the end of the world?
この世界が終わったのを知らないのかしら
It ended when you said goodbye
あなたに別れを告げられたときに全ては終わったの
あの時、本当の海辺に連れて行けば良かった。
Mは、もうこの世にいない。
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