鼠返し。
もし、要らないものを頂いたら、その人へ返せばいい。そして、入り込ませないようにすればいいのよ。
「人間は日々成長しなくちゃならないんだから」というのが口癖だった男がいた。所謂、"ハングリー精神"ってやつが輝く宝石のように見えていた頃。癖が強いのが魅力的に感じるかは、紙一重よね。
同棲していた部屋の留守電に、警察から連絡があり、男がバイクで事故を起こしたらしい。幸いに命には別状無く、左足の骨折で済んだと。左ハンドルの外車を運転する相手との接触事故。前方不注意か何かで、自賠責がどうこう騒がしかった。一緒に暮らしていたのだから、一緒に居る男の性格は良く分かっていた。自分本位なのも、運転が荒いことも。余計なことは口にしないようになっていた。とっくに冷めていた。別れのタイミングを探していた。うっかりスイッチを押してしまったものなら、厚かましいくらいの執念で、飲み込む勢いで来るのを熟知しているから。そんな面倒も時間の無駄。
ねえ、事故物件は、人間にも確実に存在するのよ。
双方の保険会社を通じた交渉が済んで、保険金が支払われた。それまで、男は頻繁に整骨院に通い、報告をしていた。バイクは全損。保険金を差し引いても、ローンが残った。また、お金を貸さなくてはならないのかと脳裏を過ぎったが、男は、あるバイク修理販売をしてる店に相談に行った。アメリカ人の夫と日本人の妻。運びこんだバイクをチラッと見て、互いに相槌を打つ。そして、巧みに計算して、会話をしながら腹を探る。まだ二年も乗っていない人気モデルだったので、男は食い下がるかと思ったが、動かないバイクは現実ゴミに過ぎない。手離した方がいい。男は静かに手離すことを選択した。そして、バイク屋の夫婦に、手を差し出して握手をした。
妙に丁寧な握手を…
足元を見られていたのは事実。
店を出た途端に、男は言った。
「俺のバイク、全損とは言え、アイツらは修理して高く売りさばくんだ。安く仕入れて高額で売る。だから、握手する時に全力で呪ってやったんだ。不幸になれ、報いを受けろって」帰り道で煙草をふかしながら、男は恐ろしく冷たい横顔を晒して低い笑い声を上げた。
思えば、怒りっぽく攻撃的な性格に馴染んでしまったのも、関わる相手次第なのだろう。感情は思った以上に伝染する。この男とは別れた方がいい。とっくに気付いていたはずだった。自分が全て正しく、他者に責任を押し付ける思考が、どれほど危険なことか。
心まで侵食されたら、取り返しがつかない。
逃げるのね。
(一年後、そのバイク屋は廃業した。ただの偶然だったかも知れないが…)
暮らす部屋にあまり帰宅しないようにして、職場近くのビジネスホテルに連泊をしていた。実際に仕事も忙しくなっていたし、そのまま自然消滅を望んだ。だんだん別れたい意思も隠さないようになった態度の、私を烈火のごとく責めた。犬も食わない言い争いの喧嘩をした日から、暫し緊迫感が続いていたある日、男が、すんなりと別れることを受け入れると言う連絡が届く。
駅前の喫茶店で会った。
「もう、おまえが俺のことを好きじゃないし、気持ちも無いことが分かった。人間は変わるものだし、俺も先に進むよ。今までありがとう」
「最後なのだから…」と男は笑顔で、左手を差し出して来た。
その瞬間、私にはあの記憶が呼び戻されていて、
此処で断ることも可能だが、"全て返してやろう"と思った。
利き手では無い手で、握手をして返し、
別れた。
そう、返せばいいの。