境界線
35歳、会社員、一人暮らしのその男は、余命一か月の宣告を受けた。
会社の健康診断に引っかかり、何度かの検査を経て、死が直前まで来ているという結果は正直な話、俺にとっては朗報だった。
俺は死に場所を探していた。
切実に、というわけではないが、生きるのを辞めたかった。
親も離婚するわけでもなく、友達もいたし、イジメられた事もない。恋愛もした。酒、タバコ、ギャンブルについては興味がない。唯一、音楽が好きで夢を追いかけたりもした。
その上で、俺は人生に飽きていた。もっと言えばこの世界に辟易していた。
生きているだけで金を払わなければならないシステムや、少し人と違う行動、発言をすれば変人扱い。こんな世界でこれから生まれてくる子供は本当に幸せなのか?などなど。
こんな事を日々考えていた俺は自分の人生にもう十分満足してしまったのだ。
自殺も考えたが、両親を悲しませたくは無かった。
だから、今回のこの予期せぬ死の宣告は、不可抗力で俺を死なせてくれる願ってもない出来事だった。
まぁ、あと一か月と実際聞かされてみると少し寂しかったり、少し怖い気もするのは事実だ。
なぜなら死んだ後のことは誰も分からないのだから。
死の宣告を受けてから2、3日たったある日。
男に変化が起こり始めた。
あと一か月で死ぬというのに、俺は入院も拒み、今まで通り会社に通っていた。
普通の人間なら、会社も辞めて好きな場所に行き、好きな事をしているだろう。
しかし俺にはやりたい事が無かった。
そんな俺は以前にも増して死後の世界を想像する事が多くなった。それが唯一の楽しみだったのだ。
そのせいだろうか、毎日見ていた当たり前の風景が少し違って見える感じがする。
空、海、山や、夜に浮かぶ自販機の光、駅のホームまで、色んな場所が、今までより少し妖艶で"奇麗"に見えた。
それは死後の世界に自分を誘っているようにすら感じた。
俺はその誘いに乗ってみる事にした。
水平線の先や、山の向こう側、廃墟跡のメリーゴーランド、水溜りの中、月の裏側、までは無理だが、確かめてみたくなったのだ。
やりたい事が出来た男は、ようやく会社を辞めた。そうして、行ける場所全てに行ってみた。
手の届く場所は全て触れてみた。
しかし、男の得たいモノはどこにも無かった。
いや、分かってはいたのだ。
しかし、この世界をもうすぐ自分は離れるのだ。
こことは別に、美しい世界がある事を信じたいのだ。
結局、死ぬまでの間、それがあって欲しいと、祈る事しか出来ないのか・・・・。
死の宣告から2週間ほどたった頃、男の身体も悲鳴を上げ始めていた。
道端で気を失い、男は倒れた。
入院を余儀なくされた。
延命治療は願い下げだったが、気づいた時にはベッドの上で、横には両親が心配そうにこちらを見ていた。
こうなってしまっては入院は免れられそうに無かった。
ある日、男の病室に黒い蝶が迷い込んできた。
男は蝶に、どこか優しくて、懐かしい感じを受けた。
男の膝下に止まり、しばらくすると病室の出入り口あたりまで飛んでいき、また男の膝下に戻ってくるを繰り返していた。
この黒い蝶が俺をどこかに誘っている、という事が疑問を持つ事なく直感で分かった。
最後にもうひと勝負してみるか。
男は別の世界を見たいが為に、軋む身体に鞭打って黒い蝶を追いかけた。
辿り着いた先には、住宅街の中に明らかに他とは違う雰囲気の建物があった。
ここは、ギャラリー?なのか?
美術とは無縁の人生だったため、ギャラリーなるモノに入るのも初めてだった。
というか、勝手に入って良いものかも分からなかったが、とりあえず黒い蝶を追いかけて、中に入ってみた。
いくつか部屋があり、それぞれが別々の展示会をしている様だった。
ある部屋に黒い蝶が入っていき、俺もそこに入る。
風景画が多く飾られたその部屋を、ぐるぐると黒い蝶は舞う。
そして、信じられない光景を目にした。
真ん中に飾られた一番大きな絵の中に黒い蝶は入っていったのだった。
ここまで来ておいて俺はかなり恐怖していた。
不可思議な現象と対峙するなんて、コレが初めてだったし、自分がどうなるのかを案じてしまっていた。
けど、その恐怖を上回る位に、その絵は魅力的に見えた。
考えるよりも先にその絵に手を伸ばしていた。
思ったよりなんの抵抗も無く、自分の身体が絵の中に入っていった。
目を瞑っていた俺はゆっくりと目を開けると、同じ部屋で大きな絵を背にした状態で立っていた。
さっき見た風景。
さっきと同じ場所。
のはずなのだが、よく見ると飾られていた風景画の見え方がまるで違った。
夜だった風景が、白く光る風景に、
その先が無かった風景が、無限に広がる風景に、
見えなかったモノが、見える様になっていた。
気づけば身体の痛みも感じず、ギャラリーを出て外の世界を夢中に見て回った。
自分が変わったのか、世界が変わったのか。
判別する術は無かったがどうでも良かった。
とにかく世界が"綺麗"だった。
もっとこうならいいのに。
こうであって欲しいと思う風景、自分が望む風景に一歩歩けば出会えた。
俺は美しい風景を思いのままに作り出した。
人や動物もいた。
服を着た動物もいたし、裸の人間もいたし、初めて見る形の生命もいたが、不思議と驚かなかった。
そして俺も自分の形を変えた。
色々試したが、最終的に白い光の玉の形が心地良かった。
周りの風景も白くて何も無い風景が一番落ち着いた。
そうこうしているとひどく眠くなってきて、意識が遠のいた。
周りの白と、自分の白が重なって、だんだんと自分とそうでないモノの境界も分からなくなっていった。
自分がほどけていくのが心地いい。
ほんの一瞬我に帰り、その一瞬で今までのあらゆる記憶が頭を通過して行った気がした。
そこで全てを悟った。
向こう側に行くのだと。
長かったような、短かったような。
どちらにせよ、俺は恵まれていた。
幸せだった。
男は美しい玉になり、無限の世界に消えていった。
終