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かいさんのかいは会計のかい

中国漁船員2人死ぬ、色丹島沖合ロシア警備艇が発砲

かいと申します。

普段は「みつばち寫眞舘」という屋号で白塗りをしたり、ネオンを作ったりして過ごしています。

このへん覗いてもらうとなんとなく私の趣味がわかります。餃子とか好きです♡

この度縁あって、新宿・石垣の地で久喜ようたさんのポートレートを撮らせていただきました。声をかけたのは私ですので、ことの顛末を説明する義務は私にありますね。
ということで、私もようたさんのnoteにお邪魔することになりました。
これから隔週で、ようたさんや私にまつわる有象無象を書き散らしていきます。何卒。


いきさつ


2023年8月23日。
新宿のタイムス(素敵な喫茶店、全席喫煙)にようたさんを呼び出し、席につくや否や、「高校生からコスプレイヤーやってました、今も白塗りやってるので、きっと素敵な写真が撮れます!!写真撮らせてくださいお願いします!!」と撮影のイメージを猛然とプレゼン、(韻を踏んでいる)、二人でイメージを膨らませていくにつれ、ようたさんも「良さげですね!!」とノってくれて、そのまま鼻歌まじりに新宿のデカい服屋さんに衣装を買いに行きました。驚くなかれ、新宿では22時まで服を売っている。

まじで恥ずかしい話だが、私はJTC(ジャパン・トラディショナル・カンパニー)に長く勤めており、「かいさん」はやれ白塗りだやれアングラだとクダを巻いているくせに、JTC育ちの「私」は小賢しい根回しなど得意で、またその場でイメージを説明する自信がなく、ようたさんに撮影を申し込むにあたり、企画書を3つも用意していた。

結局、企画書はようたさんにお披露目することなく持ち帰られ、家に帰るや否や勢いよく捨てられることとなった。「私」はクソ真面目にも、企画書を用意しないと判断できないだろうと思っていたのだが、肝心のようたさんがめっちゃアイデアマンであったので、結局企画書なんかクソの役にも立たなかったのだ。(無能さをクソ2回で昇華しました。失敬)

「ようたさんはこういう人」を定義することは難しいし、多分できない。本当は、「なぜようたさんの写真が撮りたいのか」の説明を、今しなければならないんだけど、ここで客体を定義したら活動を狭める気がして、考えるのをやめた。
これは本当に恥ずかしい話なので、誰にも言ってない。

何はともあれ、企画書を隠蔽してその日のうちに衣装をゲットした。ようたさんの写真を撮らせてもらうことになった。やった!

たばこぶやぶや。

おい!!!!!!お前誰


私は海沿いの片田舎のヤクザ崩れの家に生まれた。
父と暮らしていた当時、父親は会社員であったが、私が10歳の時に会社を興し、それなりに汚い仕事をして、現は田舎のコミュニティで少しの従業員を率いている。なので、正しくはヤクザになりかけの父である。こないだ、地元に帰ったら、父親は小さいベンツに乗っており、丸い背中には立派な龍が泳いでいて笑った。父親の身長は、161cmである。
12歳の頃に家が崩壊して私は母親に引き取られたので、事実上はもう私の家ではないのだが、私が故郷として最初に思い浮かべるのは海沿い片田舎のデカい家だ。

14歳になる頃、母親の故郷に引っ越した。
母親の故郷は山間の垢抜けない街で、地元に愛着もたいした思い出もない。偏差値40ほどのバカ高校に入った。校則がアホみたいに厳しい。
学校は楽しくなかったけど、数人のオタクが群れて、そのうちコスプレをするようになった。衣装をつめたバッグをチャリの前かごに積んで集合した。「チャリできた」の全盛期だったからもちろん、「チャリで来た」のプリクラもコスプレで撮った。寒いオタクである。ヤフオクでNikon D40を買った。

大学1年の頃、みつばち寫眞舘という屋号で白塗りを始める。コスプレが必要なくなったので、衣装は二束三文で売った。
当時、白塗り学ランセーラーには識別力があったのか、体力があったのかわからないが、たくさんイベントにも出てたし、たくさんグッズも作ってたし、活動に対して、それなりに反響もあった。この頃、みつばち寫眞舘にはWikipediaのページがあった。(今は「特筆性」を失ったとして、ページがない。多分。)


内緒話。かわいいね。

みつばちをやりながら、社会人になる。相方の白鶏さんも相当忙しかったんだけど、私も忙しくなって、制約も生まれて、相対的にみつばちの活動が減る。

ここから私の人生はめっきり俗っぽいものとなる。いかに変化したかは語らないが、私がどんどん俗っぽくなっていくこと、くだらなくなって、いけなくなったことを、本当に恥ずかしく思っていた。当時密かにしたためていた日記から、当時の焦りがわかる一文を引用しよう。

“また19歳になりたい。もはやみつばちのかいさんは私ではない。“

かいさんでいられないなら人間をやめればいいじゃない、と気づいて
24才の頃、社会的役割を半分降りた。
降りるにあたっては人を悲しませることとなったけど、それでも今となっては我ながら英断だった、と思う。
半分捨てても、ぜんぜん死なない!!人生は夢だらけ

半分捨てた時。

しばらくしてまたかいさんは私に戻ってきた。でも一旦私をコーティングした俗っぽさを完全に剥がしきることは難しくて、かいさん‘みたいな感じになった。FUJIFILM X100Fを買った。
昔やってた白塗りセーラーに戻りたかったんだけど、品質って変わっちまうもんなんですよね。みつばちが変わるから、お客さんも変わったのかもしれない。

今のみつばちもかわいいよ。

きだきだ〜

急に不思議になってきた


幼少期から青年に至るまで、放任主義の母と放蕩者の父による愛と拳を一身に受け、大きくグレることもなく反抗することもなく、ただお前らとは違うというトゲを背中に生やし、アジア人女性の平均身長158.0cmを超える身長を手に入れました。ちなみにヨーロッパ人女性の平均身長165.0mは大きく割る、そのくらいの身長です。
牛乳飲めないからしょうがない。

身長といえば、でかい男はモテますよね。で、でかい男とでかい女が出会い、でかい遺伝子を持った子供が生まれたりしますよね、
でかいでかいの遺伝子を掛け合わせても、未だ人間の最高身長は3mもいかないの、よく考えたら不思議ですね。
本能に組み込まれたでっかい枠みたいなもんがあって、逸脱できないようにできてるんだろうなと思います。

ペー

パイナップルめっちゃ好き!またね〜


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