雨の降る日は雨のように 風吹く夜には 風のように 晴れた朝には晴れやかに
「西田なんとかって知ってる?」
高校生の娘がスマホのスクリーンにポップアップしたニュースを見ながら私の部屋に駆け寄ってきました。俳優の西田敏行さんの訃報を見たようでした。
西田敏行さんと言えば、別所哲也さんが「ハムの人」であるのと同じように、私にとっては「もしもピアノがの人」としての認識でした。数々の映画やドラマでご活躍された個性派俳優でいらっしゃったようですが、当時子どもだった私は”80キロある中年男性の話”とか、”釣り”とかに興味がありませんでしたし、米倉涼子さん主演の『ドクターX』が始まった年は海外暮らしだったためどれも観たことがありません。唯一しっかり観た『西遊記』は、西田さんという俳優ではなく、“猪八戒”として観ていました。あとは「紅白でちょっとおチャラけている愛されキャラのおじさん」、くらいの印象かな。
そんな私も、『もしもピアノが弾けたなら』はそらで全部歌えてしまうほどよく覚えているのです。ここちよいメロディにやさしい歌声。子どもだった私は、歌詞の一文一句を理解していたわけでもなかったので、いったいどんな歌だったのだろうと急に知りたくなって調べてみました。
こ、これはなんと残念な歌なんだ。。。
初めて歌の中にあるストーリーを理解し、正直私は呆れてしまいました。中年の男性が、思いを寄せる相手に気持ちを伝えたいけどできないよ~という情けない弱音&泣き言。ピアノが弾けたら思いの全てを歌にして伝えられるのに、僕はピアノは弾けないし(弾けんのかい!)、ピアノも持ってない(ないんかい!)。あーあ、という歌。もはや現実逃避ソングです。
もし私が友人からこういう恋バナの相談を受けたら「何もアクションを起こしていないのにイジイジするんじゃない!」と一喝してしまうに違いありません。私は全ての出来事の中に失敗からの気づきや学びがあり、それらを経て得た成功に価値があると信じる、「君ならできる」の松岡修造さんや、「やればできる」のティモンディ・高岸宏行さん派の人間です。
けれども、西田さんの柔らかい歌声に乗ってじわりじわり胸の奥に浸透していくこの感じはなんだろう。ちょっと切なく苦い気持ちになる私がいます。
このメロディを聞くと、決まって私は子どもの頃にタイムスリップし、実家の2階の窓から、嬉しそうに小さな犬のぬいぐるみを抱えてうちに向かってやってくる友達の姿を見ていることに気づきました。閉じ込めても閉じ込めても出てきてしまう嫌な記憶の一つです。
あの小さな犬のぬいぐるみは、近所のスーパーの店頭のワゴンで売られていたものでした。母の買い物について行っていた私は、珍しく「欲しい」と言えたのでしょうね。そしてなぜか倹約家の母も珍しく買ってくれたのでした。私は嬉しくて嬉しくて、仲良しのMちゃんの家に飛んで行って自慢したのです。Mちゃんが同じぬいぐるみをもってやってきたのは、私がMちゃんちから帰ってすぐのことでした。私の話を聞いたMちゃんは、すぐにお母さんとスーパーに行き同じものを買ってもらったのでしょう。2階の窓からでもMちゃんの三日月のような目がはっきり見えました。
あの時私は、胸にぬいぐるみを押し当てて跳ねながらやって来るMちゃんを見て、怒りに似た感情が沸き上がりました。そして、玄関で私の名前を呼ぶMちゃんの声に気づかないふりをして部屋の奥に隠れました。私もぬいぐるみを持っているので嫉妬したわけでもないし、悔しいわけでもなかったはずです。ただ、子どもながらにもこの感情はMちゃんには見せてはいけないものだ、と私の姿ごと消したのでした。
なぜ『もしもピアノが弾けたなら』がこの苦い記憶を思い出させるのか、今まで考えたこともなかったけれど、それはちょうどその頃に『もしもピアノが弾けたなら』がヒットしていたこともあるのだろうけど、もしかしたら歌詞にどこか共感していたのかもしれません。
この歌の男性の不甲斐なさに若干苛立ちがありつつも、思ったことをそのままのカタチで言える素直さは、実は私がいちばん欲しているものでもあります。自分の気持ちをそのまま言えたことなんてこれまでの人生、半分もないのではないかな。物心ついた時から人の顔色を伺うクセがついてしまった私は、感情はいったん胸の奥にしまい、そこから小出しにし、状況に合わせて脚色して言葉にしてきました。いつもいい子でいられるよう、頼られる友達でいられるよう、弱さや腹黒さを決して見せないよう、言葉を選び、あるいは飲み込んだりしてきました。
でもね、気づいたんです。こんな私の心の状態で長く過ごせば過ごすだけ、外面と反比例して内面が汚く黒くなっていくって。素直に吐き出せなかった思いが溜まりすぎて、もうパカパカと蓋を押し上げています。おそろしいオバサンになりました。溜まりにたまったドロドロの黒い感情、世に出すわけにはいきません。
私の真似をして小さな犬のぬいぐるみを買ってもらったMちゃんに思ってしまった感情、今はわかります。それは珍しく母に甘えることができ、それに応えてもらえたという私のトクベツの出来事に、私の興奮が冷めやらないうちにどかどか足を踏み入れてきたことへの怒りだったのでしょう。言葉にしてみれば可愛らしいものです。もしMちゃんがやってきたのが数日後だったなら、「よかったね!」「お揃いだね」と喜んであげられていたでしょう。大好きなMちゃんでしたから。
もしもあの時、晴天からにわかに曇った私の心のままに、思ったことを言葉にして伝えることができていたら、優しいMちゃんのことだから「そうだったの、ごめんね」って言ってくれただろうし、その気持ちさえわかってもらえたら、私も素直に「でもよかったね」「今度お揃いのぬいぐるみで一緒に遊ぼうね」とも、言えたんだろうなって思います。
雨の降る日は 雨のように
風吹く夜には 風のように
晴れた朝には 晴れやかに
西田敏行さんのやさしい歌声が、こんな年になってもまだ染み付いているのは、雨の降る日も風吹く夜も晴れた朝も、まるで何も気にしないかの如く振る舞う私に、苦さを味わったあの頃の私が、必死に軌道修正を試みているのかもしれません。
本当はとっくに生き方を間違えたことに気づいているのです。素直になれたらどんなに楽か、わかってはいるけれど、頭と心はかみ合わずいつも空回り。親にも子どもにも友達にも、思いの半分も伝えず、どんどん腹黒くなる自分が「もういやー」と愚痴をこぼすだけの、私がいちばん望んでいない私になっています。
アーアアア アーアアア アーアアー
西田敏行さん、優しい歌声で不甲斐ない私を戒めてくださってありがとうございました。
ご冥福をお祈りいたします。