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「月への階段」を見た私、のぼる息子。

息子が月の土地1エーカー(約1200坪)を購入した。2700円だったらしい。

昨今の宇宙ビジネスの盛り上がりからして、今や月に行くことは遠い夢ではないのだろう。息子の所有する月の土地1200坪が、とんでもない額に跳ね上がる日も来るかもしれない。

月へ行くと言えば、私は若かりし頃、オーストラリアの西海岸にあるブルームという町で「月への階段」と呼ばれる、水平線から月へとつながる階段のような輝きが出現する自然現象を見に行ったことがある。もう、20年以上も昔の話だ。

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「月への階段」が見られるのは年間を通して20日ほど。満月の日の前後3日間。天候に左右されるため、見られる可能性が高いのは7月から10月と言われる。私は一年間オーストラリアに滞在し、7月中旬から8月中旬にかけて大陸1周の旅をした。最初の目的地だった「月への階段」の珍道中は、今でもよく覚えている。


出発の日からハチャメチャな旅だった。荷物のほとんどを最終目的地であるシドニーの郵便局に送り、持ち歩くのは体の半分くらいもあるバックパック一つ。バックパッカーが利用する施設の掲示板で売りに出されていたものを買った。

早朝にも関わらず、半年間過ごしたパースで知り合った弟分のマサトがおんぼろ車で迎えに来てくれた。バスターミナルに着くと、バックパックの売主だったナツミと、サイクリングサークルで知り合ったお人よしの中年オージーTomが見送りに来てくれていた。

感激しながら長距離バスのカウンターに行き、私は泣いた。なぜなら予約リストに私の名前がなかったのだ。私の下手っぴな英語は却下されたというのか。Why, whyばかり言って埒のあかない私を押しのけ、Tomが手際よく当日キャンセルのチケットをゲット。私は予定通りバスに乗車し、涙をぬぐって彼らに手を振った。

ブルームまでの約2240kmを丸1日かけて縦断する。お世辞にも快適とは言えない車中ではひたすら寝た。窓から差し込んだ強烈な朝日に起こされ、昼過ぎにビーチに近いバックパッカーズ(2段ベッドに寝泊まりする安価な宿泊施設)に到着。

バックパッカーズは思ったほど悪くはなかったが、相部屋になったメンバーが悪かった。カップルがいたせいで夜はほとんど寝つけず。翌朝早く散歩にでかけ、早めのランチをとって「月への階段」が見られるビーチへと出発した。

地図を片手に歩いていると、薄気味悪いマングローブの茂みで原住民のアボリジニに呼び止められた。一瞬心臓が飛び出したが、彼らは拍子抜けするほど気さくで、しばし会話を楽しみ、上機嫌で「バ~イ」と手を振り再び歩き出した。

ブルームの7月は冬とはいえ30度近くあるが、日差しがやや弱まったことに気づき時計をちらり。ビーチはまだ遠い。慌ててバス停を探した。「お金をケチらず最初からバスに乗ればよかった」と飛び込んだバス停の時刻表を指で追い、思わず顎が落ちた。最終のバスが出た後だった。

ビーチに辿り着けるのか。月に間に合うのか。諦めて引き返すべきか。引き返したところで、無事にバックパッカーズに戻れるのか。硬直した体の脳内で決して交わらない思考群が高速でグルグル回り、眩暈を感じた。

「そうだ、ヒッチハイクだ!」。突如飛び出したアイデアに一瞬光を見たが、車の往来もなければ、人っ子一人歩いていない。そもそも勇気もない。一人旅をすることで自分の強さを誇示していたはずが、一人であるがために弱くなる。暮れいく太陽が、まるで地球上に独りぼっちになったような私の分身を赤土に映し出してくれたが、励ましになるどころかその影に吸い込まれて消えてしまうのではないかと震えた。

その時、背後で車が止まり、「こんなところをなぜ歩いているの?(バカじゃないの)」と逆ヒッチハイクされた。若いオージーカップルだった。助かったのか、事件に巻き込まれるのか。強引に乗せられた後部座席で嫌な汗をかいていた。

カップルは私をビーチで降ろし、「Enjoy!」と走り去った。なんと!月どころか夕日にも間に合い、私はまるで空気を注入された風船人形のように息を吹き返した。

時間ができたので隣接するビーチを探索。釣りをする男性の背中に父の姿を重ねる。と、その男性がリールを巻きながら振り向き、思わず息が止まった。げっ! その人だけではない。そこにいる人たちはみなまさかの全裸だ。

腰を抜かすようにその場を立ち去るが、「車でどこか行かない?」「水着持ってる?」「なくても泳げるよ」とおじさんが追ってきて、身の毛がよだつ恐怖を味わった。何せ20代、黄金期、嫁入り前である。

振り切って元のビーチに戻ると、背の低い老夫婦に呼び止められた。アクセントの強い英語で聞き取りにくかったが、若い頃にイタリアからメルボルンに移住し現在4人の娘家族と暮らしていると言っていた。

やたら「一人旅なんて勇敢だ(英語もろくに話せないのに)」と褒められ、「かっぱえびせん最高だね」とも言っていた。そうしているうちに観光客らしき人たちが動き始めたので、老夫婦に礼を言い、周囲の流れにのってバスに乗り、月を見る場所へと移動した。

ブルームの冬の夜は15度近くまで気温が下がる。汗でべっとり湿ったTシャツが肌にくっつき体温を奪った。月が姿を見せるまであと2時間。私は震える体を抱きしめるように人混みの中で月を待った。

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鮮明な記憶は、ここで終わっている。赤い満月が海面からスルリと現れ、浜に向かって一本の輝く大きな道を作った。と思ったら、月はスルリスルリと昇り続けた。海を照らす光が月への階段のように見えたが、それは一瞬だった。

私は確かに月を見た。自然が生み出す奇跡の瞬間だった。だが、思い出される映像が実際に見た月なのか、パンフレットの写真なのか、もうよくわからない。あの後、夜道を一人バックパッカーズまで戻ったのだが、それも覚えていない。

人生をリセットする。そういう旅にしたかった。「結婚」というものが私の人生を変えようとしていた。築いてきたものを捨て、黒衣として新しい生き方をする。仕事を辞めることは簡単にできても、気持ちを切り替えることに手こずった。独りの力でできる全てをやっておきたい。そうしてありったけのお金をかき集め、単身オーストラリアに行ったのだ。

だが私は、楽しみにしていた奇跡を見ることよりも、そこに辿り着くまでの絶叫系ジェットコースターのような旅から生還した達成感と、生涯語り継げる武勇伝ができたことに満足した。それは、私という人間のぎりぎりのところ、いやそれ以上を出し切った実績であり、誇れる勲章だと思っていた。つい、この間までは。


息子が大学に休学届を出した。憧れて入った第一志望の大学だった。

コロナのため授業はオンラインだったが、できた時間を活用し、企業でインターンをしながら社会経験を積みつつ、同時に、高校生の頃から描いていた自分のビジネスの構想を具体化させる活動も行っていた。それがついに形になったのだ。息子は今日、この家を出て、長野で事業を始める。


人生はいつだって二筋道で、どちらかを捨てて、どちらかを得る。そういうものだと思っていた。だから、未練を断ち切る儀式が必要だった。その儀式に1%に満たない奇跡を願って。

生きている間に月に行ける日がくるなんて本気で思ったことはない。だが、息子はきっと月へ行くと思う。息子にとって「月への階段」は見るものではなくて、のぼるものだ。奇跡なんかではない。広い宇宙に浮遊するいろんな種類の階段の中から好きなものを手繰り寄せてはのぼり、また違う階段を手繰り寄せてはのぼる。一つに絞る理由なんてどこにもない。今はメジャーリーグでも二刀流が許される時代である。好きな階段を好きなだけジョイントさせながら上へ上へとのぼっていく。そうやっていつか月に辿り着くのだろう。そして2700円で購入した1エーカーの土地で、何か面白いことを始めるに違いない。


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びしばし。
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