近況、あるいは生存報告(2022.3.12)
学校をずっと休んでいた子が久しぶりに学校に通い出してもなかなかクラスに戻れなくて、結局保健室登校になってしまう話を思い出しながら文章を書いてます。
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1年ぐらい前、"絶対他人を信じない、期待しない"をモットーにして生きることを決めてから随分と楽になった。だから、自分の人生で信じたor信じたかった人達にことごとく裏切られた(と、僕は勝手に思っているが実際のところは違うのかもしれない)出来事もきちんと折り合い付けて生きてこれたと思っていた。
もしかしたら、その感覚はただの勘違いだったのかなと悩まされることがあった。普段はなるべく問題に"白か黒か"では無く、"その間のグレー"に注目し、対峙するようにしているが、たまに"正しいか正しく無いか"でしか物事を考えられなくなる。曲がりなりにも1人の人間が葛藤しながら26年生きてきたのに、自分の選択、歩み、人生、存在そのものを全否定したくなる時がある。
抽象的な表現ばかりで申し訳ない。一言で表すなら”病んでた”といったところだ。
ツイッターのアカウントを消した理由は二つあって、
一つには、自分でやると決めたことに一向に取りかかれない焦燥感から。
そしてもう一つは、シンプルに見ててしんどくなったから。
普段表に出さないようにしているし、この手の話題に触れるのもこの文章を最初で最後にしようと思うが、僕は自分のルックスに強烈なコンプレックスを抱いている。
病み始めた日、某人のルックスについて褒め称えるツイート、それに連なるリプライが目に飛び込んできて、病んでる僕にはそれが無性にしんどかった。自分には悪意なんて投げつけられていないのに、コンプレックスを刺激されてしまった。
「美しいもの」を美しいと褒めるのは当たり前だし、自分も「美しいもの」は好きだ。しかし、「美しい者」の話はどうも見ていて息苦しさを感じる。いわゆるじゃれあいだとかただのコミュニケーションであってそれ以上の意味は無いのだろうけど、同性愛者同志のやりとりで相手のルックスを褒める言葉が飛び交うと、違った意味合いを探ってしまって1人でしんどくなってしまう。「美しい者」として生まれることができなかった自分を改めて叩き付けられたような気がしてしまったのだ。ネット上ではいくらでも理想の自分になれるし、ありがたいことに自分が思ってた以上の人に興味を持ってもらえたし、仲良くなれたと思う。その一方で、顔出ししていないことで変に期待を抱かれているのではないか?と思い悩み、疲れることも増えた。
ツイッターが自分にとって完全にネガティブな存在になってしまったならば少し距離を置いた方が良いと思った結果が垢消しだった。(結果的にその判断は大失敗で、余計に病むことになったし、ロシアのウクライナ侵攻で情勢をリアルタイムで調べようとして結局別垢でTwitterを見ていたというしょうもなさ…。)
ひとまず、やりたいことはひと段落着いて春が来たおかげか心にも幾許か余裕が戻ってきたので帰ってきてみた。やってることが構ってちゃんみたいで恥ずかしいけど。
もう無理だと思っていたが、他人を信じることについてまだ諦めてはいけないと思うし、もう少しだけ頑張りたいと思う。何を?って話だけど。
あれこれ言い訳がましい上にまだ低空飛行は続いているが、そんな感じだ。
追伸
行方をくらませた間、ツイッターで仲良くなって唯一LINEを交換した友達が、心配して連絡をくれた。私信だがここでお礼を改めて言いたい。ありがとう。