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佐渡金銀山を世界遺産へ推薦すべきか

佐渡金銀山の世界遺産登録への推薦が問題となっています。

世界遺産登録は推薦見送り⁉︎

2022年1月20日、昨年12月に強制労働があったと主張していた韓国に配慮してか、一時は推薦見送りの見通しが立ちました。

佐渡金山の世界遺産”推薦見送りへ 韓国反発で見通し立たず?(2022年1月20日)


それに対し、安部元首相らが反対し、1月24日の国会では高市政調会長が質問するにいたりました。

高市早苗議員国会質疑『佐渡金山世界遺産登録推薦見送りは韓国への外交的配慮からかと外務大臣に問う』~予算委員会~令和4年1月24日

佐渡金銀山は1600年ころから平成元年(1989)まで400年ほど稼働していました。中世から江戸時代を中心とした近世、近代と管轄が、幕府、明治政府、三菱へと移り変わってきました。世界遺産のテーマとしては、江戸時代を中心とした金銀山経営が日本の貨幣制度を支えたあたりが中心です。

確かに佐渡では、朝鮮人の労働はありましたが、比較的近年の話です。佐渡鉱山を初めて訪れた朝鮮人は、朝鮮政府が鉱業近代化のために派遣した3名の留学生が始まりでした。その後、1910年代から朝鮮人労働者が佐渡鉱山に就労し始め、日本の戦時体制が進むにつれ、三菱鉱業所 佐渡鉱業所は増産体制のため、朝鮮人男性が戦時動員されました。

強制労働はあったのか

1939年2月から1945年7 月まで、募集・労務協会斡旋・徴用の形式により約1200名の朝鮮人が佐渡鉱山に送り込まれました。

自由民主党の高鳥議員は、ZAKZAKの記事の中で、当時の労働環境は強制労働ではなかったとの主旨で「韓国側の主張については、一次資料と照らし合わせても事実と異なる点があり、日本政府は事実に基づいた説明をきっちりと行うべきだ」と指摘しています。

当時の労働環境についてまとめた資料『佐渡鉱山史』(大平鉱業佐渡鉱業所)などによると、①日本人と朝鮮人労働者はおおむね同一の賃金で、複数回の賞与が支払われた②無料の社宅や寮があり、米やみそやしょうゆの廉価販売があった③勤続3カ月以上で団体生命保険に加入でき、万が一、死亡した場合は保険金が支給された④運動会や映画鑑賞会など、娯楽機会の提供があった―といった待遇が記録されている。

韓国の圧力に屈するのか!佐渡金山、世界遺産推薦見送り
ZAKZAK 夕刊フジより

上記4つの項目について『佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)新潟国際情報大学情報文化学部紀要 広瀬貞三』に記載の資料から労働環境について調べてみました。

まず朝鮮からの労働力を受け入れる方法と当時の状況についてです。

1939年度の朝鮮からの労働力導入は8万5000名に決定した。当初は各企業による「募集」の形式を取っていたが、 1942年7月から「労務協会斡旋」に変更し、1944年9月から「徴用」によった。これらは日本政府と朝鮮総督府が密接に連携し、国策として遂行された。
(中略)
佐渡鉱業所が1939年に何回募集を行い、合計で何名の朝鮮人が佐渡に渡ったかは不明である。労務課員によれば、1939年2月には「一村落二○人の募集割当てに約四○人の応募が殺到したほどであった」という。当時農村は大きな危機に直面していた。1939年7月、8月に朝鮮南部は数十年ぶりといわれる大皐害に見舞われた。羅災者の中には、「一時流言輩語自暴自棄的言動の続出となり、飼料難に因る畜牛の放売、農務閑散に伴ふ雇人の解雇、生活難に依る婦女子の売買、学童の休退学、職を求めて他郷へ流出する者、乞巧浮浪者に転落する者」が急増した。こうした農村疲弊の中、生活の活路を見出すため、佐渡鉱業所の「募集」に応じざるを得なかった朝鮮人は多かったと思われる。

佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)新潟国際情報大学情報文化学部紀要(P7)より引用

佐渡鉱山には以下のように、日本人と朝鮮人の双方が従事していましたが、職種別に日本人と朝鮮人の割合を見ると、運搬夫、磐岩夫、支柱夫といった危険な坑内労働においては、朝鮮人の割合が高くなっています。

佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)新潟国際情報大学情報文化学部紀要(P10)より引用

”①日本人と朝鮮人労働者はおおむね同一の賃金で、複数回の賞与が支払われた”に関しては、以下のように内地人と同様であり、賞与も与えられていたようです。

朝鮮人の賃金は、「坑内夫二付テハ内地人労務者同様年齢経験等考慮シ業務ノ種類及難易二 依リ予メ査定セル請負単価二依リ其ノ稼高二応ジ支給、極ク少数ノ坑外夫二付テハ定額給ヲ支給ス」とある。支払い方法について、「賃金ハ月額ヲ以テ締切リ採鉱関係ハ翌月十日、其他 ハ翌月六日二支払フ(内地人同様)」とある。また、これとは別に「稼動奨励」のため、各種 の「精勤賞与」が設けられた。朝鮮人一人当たりの平均月収は1943年4月が83円88銭、’5月が 80円56銭である。

11Pより

以下のように筆者による追記では、実際の状況は朝鮮人にとって不利な状況であったと推測していますが、言葉や仕事に対するスタンスが違うことから、従事する前に教育が必要であったことを鑑みるとある程度は仕方なかったのではないでしょうか。

ただし、平均稼動日は明かでない。朝鮮人の賃金には二つ問題が指摘でき る。第一に、元農民である朝鮮人にとって技能が要求される「請負制度」は日本人に比べて 不利だったと思われる。第二に後述するが、この賃金から労働に必要な道具代等が差し引かれるため、実際手もとに残る賃金はごく僅かであったと思われる。

11Pより

”②無料の社宅や寮があり、米やみそやしょうゆの廉価販売があった”ことは間違いないようです。家族持ちにも、単身者にも、配慮があり、会社経営の農園まで経営して食料を補充していたことがわかります。

佐渡鉱業所は 「家族持労務者ニハ社宅ノ無料貸与、共同浴場施設、米、味噌、醤油、其他生活必需品ノ廉価配給(直営ノ購買会)及家族傷病ノ場合ノ診察(直営ノ医局)等ヲ実施 単身者ハ寄宿舎 (相愛寮)三ケ所二収容シ、舎費ハ徴収セズ 食事ハ内地人同様ノ調理ニシテ食費ハー日五十銭(実費トノ差額ハ会社負担)寝具ハ使用料一ケ月一組五十銭徴収シテ会社ニテ貸与、光熱費、浴場費ハ会社負担其他作業用品及衣服履物等日用品ノ購入払下等二付テハ前記購買会ヲ通ジ廉価二行フ、尚右寄宿労務者二対スル炊事ハ共同炊事場(栄養配給所)二於テ之ヲ行ヒ謙菜類等不足ノ折柄、之ガ補給二付テハ会社直営農園ヲ経営シ疏菜豚肉果実等ノ補給ヲナス」 としている。このように、佐渡鉱業所は朝鮮人の生活を安定させるため一定の努力を払っていた。

P15より

”③勤続3カ月以上で団体生命保険に加入でき、万が一、死亡した場合は保険金が支給された”について、死亡時には保険金300円との記載があります。ただし扶助内規が朝鮮人に適用されていたかは不明としています。

朝鮮人労働中の死傷者に対し、佐渡鉱業所は「勤続三ヶ月以上二及ビタル時ハ団体生命保 険二加入セシメ各人在籍中ノ保険料ハー切会社負担シ万一不幸アリタル場合保険金三百円ヲ贈呈ス、災害二対スル扶助、退職ノ場合ノ給与関係等ニツキテハ内鮮区別ナシ」としている。 佐渡鉱業所では「佐渡鉱山鉱夫扶助内規」が設けられていたが、これが朝鱒人に適用された かどうかは木明である。

P12より

”④運動会や映画鑑賞会など、娯楽機会の提供があった”ことも間違いなさそうです。

佐渡鉱業所では「全従業員ヲ以テ組織セル協和会二入会セシメ従業員ノ親和修行、救済、待遇改善、能率並福祉増進等ヲ図ル協和会ハ随時映画会講演会、遠足会、運動会(本年度ヨリ体練会トス)、其他祭典催物ヲ開催シ尚各宿舎ニハ娯楽室ヲ設ケ雑誌、朝鮮将棋、蓄音機、ラジオ等ヲ設付ケ慰安娯楽ト趣味ノ向上ニ努ムル外各種救済事業ヲ営ム」としている。

17Pより

自分が子どもの頃の30、40年前、あきらかに朝鮮人に対する差別意識はありました。おそらく戦中当時も日本人による朝鮮人に対する差別意識はあったと思いますが、佐渡鉱業所は朝鮮人の生活を安定させるため一定の努力を払っていました。1935年時点では1日1人平均の事故が頻発しており、当時、事故が多発する危険な職場であり、そこでは日本人も朝鮮人も一緒に働いていたことは間違いありません。

追記)2022年2月2日の虎ノ門ニュースでも上記資料について触れられていました。


世界遺産登録はするべきか

青山繁晴議員の「ぼくらの国会」によると、韓国側は、佐渡の世界遺産登録を阻止するための準備を周到に用意、工作をしているといいます。日本側が世界遺産登録を一時取り下げの姿勢を示したのは、「負け戦」をしないという判断したからとしています。

しかしそうであったとしても、当時の資料を公平に紐解き、韓国が何と言おうが、日本としては正当に世界遺産登録することを支持しています。推薦期限は2月1日です。


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