吉原の遊郭の今~鬼滅の刃・遊郭編を終えて
鬼滅の刃 遊郭編の最終話が放映された2022年2月13日、吉原の地(東京都台東区千束)を訪ねました。
疑心暗鬼という言葉がありますが、鬼は、暗くてよく見えない隠れた部分にいる、またはよく見えないようにしている闇の部分にひそむものだと思います。
郭という字は、城郭や外郭で使われるように柵で囲まれたところという意味です。吉原の遊郭は、まさに闇に包まれた隔離された場所であったのです。
吉原の歴史
明暦の大火のあとに、浅草田圃を一段高く埋め立て、造成されてできたのが新吉原です。大通りを中心に左右100間(180m)づつで、幅360mほど、奥行きも400mくらいでしょうか。四方には「お歯黒どぶ」がはられ、塀で囲まれています。吉原に入るための入口はひとつで、鬼滅の刃でも描かれていた通り、大正時代にはアーチ型の門の上に女神像?がありました。
大門までの道は五十間通り(約90m)といい、斜めに侵入するかたちになっています。これは外の街道を行く人から見えないようにするためだったそうです。
2月13日は小雨のなか、私は千束3丁目から行ったため、吉原大門の反対側から吉原へ向かいました。遊郭は今どんな場所になっているんだろうと歩を進めますが、この場所に向かうにつれて、何となく左足が重たくなってきてました。
千束3丁目の交差点からの道路から入ると目に入る吉原弁財天には観音様がいらっしゃいました。入り口に背を向けてたっていて何か違和感があります。観音様が向いている先にはNTTが見えます。あとでわかったのですが、NTTの方をみているのではなく吉原遊郭の方を向いていたのでした。
1875年に起きた関東大震災の際、逃げ遅れた遊女約500人がここにあった弁天池に飛び込み溺死したとのこと。その遊女たちの供養のためつくられたのがこちらの弁財天だそうです。
このブログからすると、成仏されずに苦しんでる方もまだまだいらっしゃるようです。どおりで足が重たくなったわけです。この動画をみて知ったのですが、家田さんも足をひっぱられたそうです。
微力ながら手をあわせてきました。
また1945年には東京大空襲もあったようです。吉原の遊郭の信仰も集めていたとのことで、今もここにはたくさんの念があるように思います。
ここの壁には、吉原の昔の写真や極道の妻たちの作家である家田荘子さんの記事などがたくさん掲示されています。
弁財天をあとにして、150mほど歩き吉原神社へ行きます。
吉原神社には昔の地図がありました。吉原の周りはお歯黒どぶで囲まれています。明治27年当時はその周りは田んぼであったことがうかがえます。前述のとおり、街道からは見えないようにS字にくねりながら入る街は、隔離された世界になっています。
次に吉原遊郭のメインストリートだった仲之町通りを大門の方へ進みます。赤い灯篭が並び当時を思いおこさせますが、それ以外は普通の町並みです。
大門があった場所には跡を示すものもあり、吉原交番側からみるとスカイツリーがよく見えました。
「お歯黒どぶ」があったであろう道に沿って歩いていくと、昔の面影がのこっています。
現代の妓夫太郎と梅
鬼滅の刃にでてくる妓夫太郎(ぎゅうたろう)とは呼び込みのお兄さんのことです。吉原の街を1本入り歩いていると、声をかけられます。現代の妓夫(客引き)です。
そうです、このあたりは今もソープランドが軒を連ねている場所だったのです。
鬼滅の刃遊郭編の最終話で、妓夫太郎は、堕姫の名前を思い出して言います。
「梅とはひどい名前だ。母親の病気の名前からつけられた」と。
現代に広がる梅毒
梅毒は死に至る病気ではなくなりましたが、コロナ禍で20代前半の女性を中心に急速に増えているようです。
風俗に行って感染した男性から女性に感染していると記事では分析しています。
これ(感染症など)は今も人間のもつ「闇というか鬼」なのかもしれません。