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旧甲州街道ウォーク㊱(完) 上諏訪宿→下諏訪宿

こんにちは、ばーどです。
2024年11月4日(月祝)。
ついに最後の1区間。
秋晴れの諏訪湖を眺め、ゴールした先にあったのは、歴史と神々と自然に守られた素敵な街でした。



1.湯の脇

上諏訪宿を抜けて、諏訪盆地と山崖のへりを進みます。

下諏訪宿へ向かう街道 右側に山が迫る
下桑原の一里塚跡碑 江戸から五十二里め
説明板
右側の崖の上にも住宅街が広がっている

諏訪湖は地殻の断層変動できた湖で、北西ー南東方向の湖岸には平地が広がりますが、これから歩く北東側は平地が極めて少なく、崖が湖近くまで接近しています。

諏訪市湯の脇 温泉が沸く地ならではの地名 
道なりに右へカーブ
指月庵

街道から外れて、崖の方向に進んだところに、高島藩の菩提寺である温泉寺があります。藩主が参拝するときには、坂の手前のこの庵で休息するのが習わしだったとか。

街道は左の道 右の坂を上ると温泉寺へ
坂の分岐に坐する地蔵様
道なりに今度は左へカーブ
少しづつ上りになっている
先宮神社
緑に囲まれたお社
セイコーエプソン 本社

前身は、1942年創業の大和工業。所在地(現諏訪市大和=おわ)の地名が入る通り、地元の企業として根付いています。

貯湯タンクがあるご家庭
貯湯タンクのあるご家庭

諏訪市に入ると、貯水ならぬ「貯湯タンク」がある戸建て住宅が目につくようになりました。
諏訪市のHPを見ると、2か月で約2.4万円の温泉料金がかかり、その他にも加入金(敷金のようなもの)や温泉下水使用料も必要なようで、便利なようで意外と高いな、という気がします。加入者は減っているようで、いつまで続くか心配です。


2.諏訪湖

すでに諏訪湖の北岸地域ですが、家々にさえぎられ、なかなか湖を見ることができず、ここでようやく見えてきました。

ようやく見えた諏訪湖
ようやく見えた諏訪湖
ようやく見えた諏訪湖
大和の大けやき
残念ながら裏側はえぐられた状態だ
常夜灯 北村中と刻まれている
諏訪市内循環バス 旧道●●バス停シリーズ

大和(おわ)地区は、高島藩から諏訪湖の投網漁が許されていたそうです。今よりも湖岸がだいぶ近かったのでしょう。

この数日前に代表辞任を発表してました
クレーンで吊下げられて剪定作業

ここがちょうど市町境。諏訪市から下諏訪町へ入りました。

諏訪湖のほうまで下る急坂
崖の上に立つのは何の建物だろう
廃業した旅館 諏訪湖を望むロケーションだが
棚田
青空に紅葉と緑が映える
なまこ壁の蔵
なまこ壁の蔵
茶屋 橋本政屋跡
茶屋 橋本政屋跡
門は高島城三の丸から移築したもの

旧甲州街道(下諏訪)沿いにある茶屋跡で、諏訪湖を一望できる江戸時代のおもかげそのままの建物です。諏訪湖のお殿様がお忍びで来られたと言われ、200年たった今でも当時の面影を残しています。

もりぞうポスト
板塀の蔵
下諏訪町バス あざみ号 バス停
板塀の蔵
板塀の蔵
高層マンション 諏訪湖花火がよく見えそう

湖畔に最も近い場所の高台で、カフェやホテルなどに絶好のロケーションだと思いますが、旧道の道が狭く大型車両が通行できないため、そうならなかったみたいです。

池上別荘 かつて旅館があったのだろうか
ホテル石投荘 看板だけ残るが建物は?

石投の地名は、ここから石を投げれば湖まで届く距離だったからだとか。

現在の湖までの距離はこれくらい
手前の建造物は諏訪湖博物館
明治天皇も巡幸中にここで投網を見学した
街道の風景
湖の対岸の山々
上諏訪のホテル街を遠望

ちなみに、諏訪湖は湖ですが、河川法上は天竜川水系の一部として扱われているそうで、何となく不思議な感じ。

湖から離れて少し山のほうへ入る
下諏訪の街並みが眼下に見えてきた
徐々に坂を下っていく
冨部の一里塚跡碑 江戸から五十三里め
ここが甲州街道最後の一里塚となる
苗字が書かれた蔵
甲州街道北側を鎌倉街道が通っているらしい
承知橋
承知川橋の一枚岩
説明板 諏訪は信玄にまつわる逸話が多い
甲州街道 最後のカーブ
どの家の玄関に弓矢が飾られている

3.<第四十六番>下諏訪宿

下諏訪宿は、諏訪大社下社の門前町として栄え、また合流する中山道では唯一の“湯が沸く”宿場町だったそうです。

下社秋宮の森が見えてきた
諏訪大社下社秋宮前を通る

ここまでの無事御礼に、後で参拝することにしています。

樹齢1000年 専女(とうめ)のケヤキ
芽吹きや紅葉で季節を占う役目があったそうだ
左側に続く道は大社通り
旧道は鳥居の左の道を進む
旧番所跡を左折 下諏訪宿の江戸口
塩羊羹で知られる新鶴本店
燕来荘

燕来荘を過ぎるとすぐ、甲州街道の終点。
その前に、歩いてきた道を振り返ってみました。

正面の道が甲州街道の江戸方面
甲州街道と中山道の合流之地碑 12:45着
両街道が刻まれたレリーフ
下諏訪宿問屋場跡 “甲州道中終点”とある
綿の湯跡
聴泉閣かめや

皇女和宮や参勤交代の諸大名滞在し、明治以降は、芥川龍之介、与謝野鉄幹・晶子、島崎藤村らが宿泊した歴史ある旅館です。

旧中山道 京方面の風景

中山道沿いには、風情ある建物が多く残されています。

御宿まるや
桔梗屋

いつか旧中山道ウォークでここを訪れるときがあれば、懐かしく思えるでしょうね。

旧中山道 江戸方面の風景
岩波本陣 正面の門構え

中山道・甲州街道の分岐の地で本陣・問屋を務めた岩波家が、28代続く系譜を引き継いでこの屋敷に住みながら文化財を維持管理しています。
さっそく中を見学させていただきました。

門をくぐり母屋へ
京風数寄屋造りの母屋入り口

現存する建物は築220年。明治天皇や多くの大名が立ち寄った、当時の面影をそのまま残しています

諸大名が滞在するとき掲げる関札
下諏訪宿の古地図
岩波本陣の内部
岩波本陣の土蔵
岩波本陣 当主の間

主屋の座敷から眺める庭園は素晴らしく、まるで屏風絵のようです。
現在の28代目ご当主自らが登場し、建物や庭園についてご説明していただきました。

主屋から庭園を眺める
主屋から庭園を眺める
主屋から庭園を眺める
お抹茶と金平糖もいただく

上諏訪宿→下諏訪宿
 距離 5.9km
 所要 1時間40分(休憩除く)


4.御礼参り

本陣を辞して、旅の締めくくり、道中無事の御礼参りに向かいます。

諏訪大社下社秋宮 鳥居
寝入りの杉
神楽殿
神楽殿 注連縄の太さに注目
拝殿
一之御柱
御朱印をいただく

下社の春宮も下諏訪町にありますが、1.2kmほど離れています。
時間もあったのですが、旧中山道沿いにあるのでまたいつか訪れるときがあるかもと、今回は見送ります。

マンホールは勇壮な御柱祭のイラスト
海抜786.7m 昨日の富士見峠から200m下った
宿場街道資料館に入ってみる
当時の宿場町の図
下諏訪宿は街道が集まる要所だ

宿場街道資料館は、資料も豊富であり、当時の宿場末の様子や生活風景もわかりやすく、じっくり見学したいところです。
目の前の道は旧中山道。次の目的地に向かい“旧中山道プチウォーク”しました。

高札場跡
振り返ると「中山道」の下諏訪宿とあった

次の目的地は、温泉。街中にある公衆浴場の多くは、地元の方専用ですが、下諏訪町の一部は誰でも入ることができます。
菅野(すげの)温泉は、1890 年創業の公衆浴場。昔の銭湯の雰囲気がいいところで、旅の疲れを280円で癒してきました。

菅野温泉の入口
風呂上がりのビール 街道ゴールの祝杯
中央本線下諏訪駅
かつての駅名標や急行電車の表示板
ホームに置かれた古い御柱
御柱祭の曳綱
説明板
臨時あずさに乗って帰路に

5.旅を振り返って

甲州街道の四十四次(注)の約215kmを、8日半で完歩しました。
(注)“四十四次”は小仏宿を正式な宿場町として扱わないカウントによるもので、今回の旅ではその小仏宿とゴールの下諏訪宿も入れて、計四十六宿になってます。
2024年は、1~4月に日光街道、5月に奥州街道と、結構なペースで歩き続けてきました。その勢いのままに、6月からこの甲州街道に挑戦し始めて、11月にはゴール。結果的には、五街道のうちの3本を年内に歩いたことになります。
梅雨のジメジメと、夏の猛暑(真夏は避けたがそれでも残暑厳しかった)、台風や低気圧による長雨の影響で、計画段階から天気予報とにらめっこの半年でしたが、これが昔の旅人ならば、天候不良で足止めを食ったりすることも日常茶飯事だったかもしれません。
日光・奥州街道との決定的な違いは「峠越え」で、熊やイノシシと遭遇する危険性におびえたり、年齢の割には体力に自信がある私も膝や足首に負担がかかったりで、想定タイムよりも時間がかかりました。(ルート後半が山間地なので)寒くなる前にはゴールしたいとの思いもあって先を急ぐスケジュールを組んだたも、全体的にはもう少し土地の名物や風景をゆっくり楽しむ時間がとれればなぁ、と思ってます。
街道のルートが失われていたり、一里塚の所在地が不明だったり、大火に見舞われて宿場町の雰囲気が残ってなかったりと、少し残念なところはありますが、夏から秋の甲州や信州の風景と出会い、学びと楽しみを得ることができました。

さて、五街道の未踏は中山道のみ。次は・・・と行きたいところですが、これまでのどの街道よりも長く険しい道ですので、じっくり時間をかけて、それでもいつかは挑戦してみたいと思ってます。

つたない文章にここまでおつきあいいただき、ありがとうございました。

下諏訪宿から西へ伸びる“旧中山道”の風景

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