連載小説「超獣ギガ(仮)」#16
第十六話「月光」
どうして憶えているんだろう。
しゅりはその記憶がよみがえるたび思わず首を振る。目をしかめて、奥歯を噛みしめる。忘れようとするたび、思い出してしまう。振り返ると追跡に気づく影と同じなのかもしれない。並走する影は、体から離れることがない。
影。足下から伸びて、離れずについてくる影。
十二月下旬の冷たいアスファルトに鳴る足音。
忘れたい。忘れたくない。何度、揺れただろう。しゅりにとって、父の記憶は、木漏れ日のようなあたたかい笑顔と、そのすぐ後に起きてしまった最期が混在する。思い出したいことと、思い出したくないことを同時に回復させてしまうのだ。
しゅりは思う。
私は、何度、自らのその記憶を疑っただろう。
寒い季節だった。窓の外のほのかな光。それに向けて伸ばした私の手は、何度、思い返してみても、赤ん坊の指だった。柔らかな光に揺れる指。手の甲に細い傷が残っている。私を守ろうと、必死に抱き寄せてくれた、あのとき。尖った父の犬歯をかすった、私の手。細く赤い線がふくらみ、やや、時間を置いて、その線に溜まった数滴が落ちた。鮮烈な赤。それは、命の色。
頭上の陽に手をかざす。長く伸びた細い指。父と母からのいただきもの。記憶にある指先は、いまの自分の指とはまるで違っていた。細い傷跡はかすかに見てとれる。しかし、もう、この手が血を流すことがないように生きてゆかなければ。
私の記憶が確かであることは、あのときの傷跡が物語っていた。
昭和九十九年十二月二十八日。
東京都新宿区霞ヶ関。明治神宮野球場跡地。
降り始めた雪に、小日向は傘を差す。その隣には、華奢な、肩幅の小さな女がいた。彼女は雪平ユキ。ケルベロスでは実働部隊のバイタルなど、主にオペレーターを担当している。小日向と雪平。父娘か、それ以上の年齢差の二人が並んで、一つの傘の下で雨をしのいでいた。二人は特に雨上がりを待ってはいるわけではなかった。旧明治神宮野球場。その跡地。ホームチームだったスワローズが去る直前に開閉型の屋根を増設に至った、要所。
「大きな神社さんとかさ、それを線で繋いだら、結界になるとか聞いたことあるよね」
バックスクリーンへ伸びるレールの先を見つめたまま、雪平ユキが訊く。
「皇居とかな。あれなんだっけ。レイ……」
レイアウト。違う。ゲイロード。違う。レイじゃなくなっちまった。レイ……レイなんだっけ。
縦に深い眉間のしわ。小日向五郎も聞きかじりの知識で応えた。しきりに首を傾げる。その様子を見上げた雪平が、
「そろそろ、物忘れが酷くなる年齢よね」
と茶化す。
「忘れたんじゃなくて、そもそも知らないだけだよ」
小日向はどうにか言い返してはみるが、その手のひらに笑う顔を隠して、肩を震わせている雪平の姿に、ため息で、やれやれ、と、こぼすのが精一杯だった。
「それって、レイラインのことじゃないか」
やや先、数歩ほど先で、やはり、伸びるレールガンの先端を睨んでいるらしい、文月玄也の声が聞こえた。黒のジャケット、パンツ。首に添わせた、サンドカーキのストール。磨き抜かれたレザーシューズの真下に溜まる水溜り。
「レイライン。古代の日本人は、神の賜物、神の教えに沿って、この国を守ろうと、皇居を中心に結界を張った。それがレイライン」
蓬莱ハルコが文月をフォローする。
玉前。富士山。七面山。伊勢。大山。出雲神社。列島に広がるそれら全てを点と線でつなぐと、結界になる。形状がダイヤモンドに似ているという。そのレイラインに沿うように、神を導く、三本足の烏、八咫烏が周回する。そうやって、神に守られてきた。それが、この日本国。天皇家にその術式や秘図があって、受け継がれていると聞く。結界は天災や大きな事故のたび、その効力を軽減させてしまうから、天皇家はそのたび、神官を伴って、術式を携え、ときには神器を用いて、この国を守ってきた。
伝え聞くことはあるが、それが現実であるのかどうか知る者はいなかった。いまや現職の内閣総理大臣である蓬莱ハルコでさえ、天皇家の伝承についてまでは説明を受けていない。その多くは噂程度に留まってもいる。思わずため息がもれた。
いま。私たちを、この国を守ってくれるのは。伝説や神話ではない。元の夫が率いる、隠密機動部隊と、その上部組織、国家治安維持機関、冥府。
「都市伝説みたいなものなんだ」
いくぶん、現実の在り方に萎えた様子で雪平もため息を続けた。
「もはや、さっぱりわからん」
物忘れが酷くなったわけではないことを確認して、小日向はわずかばかり安堵する。
「そろそろ、来るぞ」
振り向くまでもなく、そこにいる全員が地響きに気づいていた。ついさっき、通り抜けて来た、ホームベースの後ろの暗闇、地下である、大空洞からそれは迫っていた。重金属が軋む、どころではない、衝突を繰り返しているような、耳を壊しかねない破壊音は、徐々に、だろうか、一瞬に、だろうか、間もなく、地上に到達するだろう。その強烈なノイズに耳を塞ぎたくなる。
あの、体調六メートルに及ぶ巨体、たったの一頭で特殊急襲部隊を、戦車隊を殲滅したモンスター、超獣ギガを捕縛している鋼鉄の監獄、冥匣(めいごう)を搭載した、無人運搬船「星屑8号」が砲身になるレールを走って、日本を、地球を離脱する。
「文月隊長。みんな。星屑8号はこのまま離陸します。離れてください」
その声は、高崎要だった。
同日。
神奈川県横須賀市。
しゅりは、自らの広げた手の両面を観察してみる。いつの間にこんなに大きくなっていたんだろう。細く、長く、すでに成長した大人の指だった。手首を返して、軽く握る。爪。面倒くさくなって放置したネイル。欠けたり、削れてしまっていたりもする。見てもいない見真似で塗られた、犬小屋の壁を思い出す。りななら、除光液くらい持っているだろう。どうせなら、お願いして、まっさらの白い爪に戻してもらおう。しゅりは、いま、少し前を歩いている、鳥谷りなの背を追う。
「さぶいなぁ」
振り返って、りながこぼす。しゅりには身なりを注意しておきながら、本人は部屋着のスウェット上下、それに、ぐるぐる巻きのマフラー。裸足にいい加減なサンダル。大差ない、どころか、まるで差がない。似たようなものだった。
「私には、ひどい身なりだとか言うのに、りなも大概よね」
いまさらと思いながら、しゅりは言う。いまごろかいな、と、りなが笑った。街路を吹き抜けてゆく寒風。氷を混ぜたようなその棘に、思わず、二人は抱き合った。それから顔を合わせて笑う。いつから食べてなかったっけ。お腹におさまってしまった芋のことはとうに忘れて、歩き続けていた二人は、再び、激しい空腹を感じていた。
振り返ると隊舎は遠く、すでに視界になかった。暮れの街を、つい先程の風を追って、二人は通り抜ける。振り返りたいとは思わない。振り返らないと進めなくなることはある。
「えいっ」
しゅりは右足の着地点に小石を見つけて、なんとはなく、前方へと蹴飛ばしてみた。思ったよりも跳躍して、りなのお尻にヒットしてしまった。
「おいっ」
振り返ってしゅりを睨むりなを見て、しゅりは大声で笑った。駆け寄ってきて、抗議するりなに、いい加減な、ごめんごめん、で、しゅりは笑った。
「帰りさ」
「ん?」
「しゅうまい食べ行こうよ」
「ええなー、それ。じゃあ」
「生ビール、大ジョッキもね」
うん。波早さんいるかな。いたら、誘ってあげよう。隊長いるかな。小日向さんやユキや高崎くんもね。
「あ、隊長と雪平と小日向さんと。確か、東京やで」
「あー、そっか。なんか、そんなふうなこと言ってたね」
ふと振り返る。すでに隊舎は遠く視界にはない。光はいつだって、見果てぬ未来に、進む先に灯るのだと、しゅりは知っている。
あの日はクリスマス前だった。ツリーにはサンタクロースやトナカイの人形が吊るされていた。ベビーベッドの外には、時折、私の様子を見に来る父さんがいてくれた。それはとてもあたたかい部屋だった。
生まれて間もなかったはずだ。母に抱かれて、おそらくタクシーに乗って、父の待つマンションに戻った。それから。それから、私が育つはずだった部屋に、それがある街に、あいつが現れた。超獣。後に超獣ギガと呼称される、モンスター。巨大な猿。予め予期された災厄。人類の敵。人類だけの敵。
それは、もう一つのヒトの可能性なのだと、後に聞くことになる。
しゅりとりなは商店街を離れ、訓練施設のある基地敷地内へその歩を進めていた。敷地を囲むフェンスは高く張り巡らせてあるが、軍事基地のものものしさはない。
二人は首から下げているIDカードを基地前で提示して、無人のゲートが開く。その向こうの空間はコンクリートに閉ざされているが、しかし、柔らかな照明が灯っていた。しゅりはジャージのポケットのなかへ、りなはパンツのお尻のポケットへIDを押し込んだ。
この先は、国家治安維持機関、冥府。その基地になる。
そこは横須賀市内の臨海地域。かつては防衛大学の学舎だった。隠密機動部隊ケルベロスと彼らの母体、治安維持機関・冥府の本拠地だった。
冥府はあくまで、仮称であり、公的に名乗る名前は持っていない。彼らは歴史に触れ、しかし、歴史には残らない。そう決まっているのだ。
つづく。
artwork and words by billy.
ここまでのこの物語は……