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備忘録「いつになく目覚めの悪い朝」

 夢って、ご覧になりますか。記憶してはいなくとも、人は毎夜、夢を見るのだと聞いたことがあります。僕はその夜、その朝、その夜と朝の間であっただろう夢のことをほとんど憶えています。残念ながら、面白おかしい夢は、例えば、大ファンの本田翼さんが隣でにっこりと微笑んでくれているような夢はほとんど見ない。ごく稀に見ることもあるけれど、そういうときは、その前後の日に悪夢でうなされている。
 僕にとって悪夢というのは、並走する影のようなもので、離れてくれることがない。蹴飛ばすように離れてきたはずの、ものやことが、最近の悪夢的大流行のようで、人の不幸が大好きで、幸福な人のことを嫌う、底意地の悪い、ろくでもない、どこかの片田舎の年寄りが頻繁にあらわれる。そのたび、目覚めて、起き上がり、顔を洗って、うがいをして、冷蔵庫にあるミネラルウオーターを飲み干す。
 あれは夢なんだ、現実ではないんだぞ。そう言い聞かせる。何度か深呼吸を繰り返す。そう、もう、僕は、自由なんだと思い出す。そうは思うけれど、しばらく荒い呼吸は続く。関係があるのかどうかは知らないけれど、血圧の低い、それはそれは、測定のたびに計り直しを要求されるくらいに、とても低い人間で良かった。悪夢にうなされて、ドキドキしてるときなんて、きっと、血圧もあがってるんじゃないか。しかし、僕なら、少しくらい血圧があがっても、どうにか標準かそれ以下で済む。

 最近はどういうわけか、その夢は、記憶に残っているなかで、最も幼いころの友人たちが毎夜、訪れた。初めて好きになった女の子。それから幼稚園の先生。小学校の先生や、クラスメイトたち。
 それは続く。中学。高校。
 初めて、お付き合いをした女の子。それから、専門学校の友人たちは、共に旅行をして、手を振って別れてきた。初めての会社勤め。そこで知り合った同僚、友人。うとましい上司。そんな人たちに手を振り、あるいは、ろくでもないセリフを吐いて、追う影を振り解いて進んできた。そんな、いくつもの姿が現れるようになった。別離を悲しんだ人には笑顔で、別離を望んだ誰かには捨て台詞を。じゃあな、おまえら。じゃあな、おまえら。
 これはいつまで続くのだろう。順に続くなら、そろそろ、うん。傷つけた人や、その逆も登場するのだろうか。会いたくはない。でも、自分で選択していることではないと思う。
 ずいぶん古い友人たちと海を見る旅をした。そして別れた。かつての同僚たちと酒を飲んだ。そして別れた。そんな夢が続いて、初めて好きになった女の子や、あれやこれやの人たちに手を振られて、どうにか新しい港にたどり着く夢を見た。
 次は。
 次もやはりあるのだろうか。僕は誰に別れを告げられ、手を振るのだろう。どんな場所に生きても、どこに根を下ろしても、必ず、別れはくる。それが前提なのだとは思う。けれど、これだけ、毎日、お別れが続くと、ベッドに入るのが億劫になってしまう。
 ふと思ったのは、最近、鑑賞した「ターミナル」という映画。佐藤浩一さんは、ベッドがあるのに、リビングらしき部屋のソファで寝起きしているシーンが多かった。あれは、深い眠りを遠ざけようとしていたのではないか。それが正しい推察だとしても、それはそれで僕にはまったく関係ないことなんですけど。

 そして、今朝、見た夢は、若きころの母が登場していたんですが、僕一人だけ食事を用意してもらえず、泣きながら抗議をする夢と、どこかの見知らぬ職場で、携帯電話を紛失し、右往左往する夢の二本立てでした。やっぱり悪夢にうなされた日は目覚めが悪く、起きられずにそろそろ九時。やれやれと思いながらコーヒーをすする。
 今夜は良い夢が見られますように。
 花に嵐の例えもあるぞ、でしたっけ。花鳥風月や晴耕雨読と同じくらいか、それ以上に親しみと慈しみや悲しみさえ感じながら、その言葉を思うことの多い春。あたたかく、慈しみのある季節が訪れることを願ってやみません。
 二月というのは、相変わらず、苦手な季節だ。じゃあ、またね。ビリーでした。

photograph and words by billy.

追伸/夢といえば、やっぱりスピッツさんたちの「正夢」。昨年のこの時期同様、いまはまた新しい長編小説のイメージがあって、そのことをよく考えています。物語をリードする主題歌はやっぱり、スピッツがいい。
 きっと、その物語には、正夢が合う。やっぱり、スピッツがいちばんだな。

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ビリー
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